2019年 立命館大学校友会は設立100周年を迎えます。

Alumni

つながる

みんなの思い出

友人・恩師・クラブ・キャンパスライフ…
校友だから共感できる!
そんな学生時代の思い出をのぞいてみよう。

投稿受付中!

  • No image

戦後間もなく入学した頃の思い出“あんなこと・こんなこと”

name
湯川 正夫さん
1949年卒/専門学校工学科
post
2018.8.20
Twitter Face book

SHARE

戦後間もなく入学した頃の思い出
“あんなこと・こんなこと”

旧制の京都市立第2工業学校の生徒だった私達は、国の戦時命令に従って、向日町にあった井上電機の工場で働いていた。それは勉学もできず、食糧も乏しい時代だったが、潜水艦用の部品を造ってきた。そんな最中、昭和20年8月15日、突如として日本軍が敗れ終戦となったのである。
勤労学徒のみんなも、鎮痛のおもいに涙した。学徒は警戒警報のサイレンが鳴れば、西山に退避することになっていたが、山の中で、米機・グラマンから、もの凄い機銃掃射を受けたときは、本当に怖かった。いまも機上の米兵の姿をおもいだす。これは7月19日のことで、後日、西山女学校の勤労学徒さんが、犠牲になられたと聞いたが、終戦も間近だったのでより悔しかった。こんな戦争は絶対に起こしてはならない。
旧制立命館専門学校の前身は、日満高等工業といわれ、マンコウ(満高)の名で広く知られていた。当時の学生には優秀な人が多いと聞いていたので、不安もあったが、父が強く奨めてくれたので、受験に全力を尽くした。また父の兄弟が伸鋼所を営んでいたことも、冶金学へ進むことに影響したかもと思っている。
大川二十二先生の講義は、二元合金各種の溶解度曲線についての、解説だったと記憶している。 先生の講義は、いつも英語のトークで始まり、楽しい雰囲気につつまれていた。専門の技術用語も多かったが、とても理解しやすかった。また先生の高貴な人格や、その暖かいオーラに接し、工学の知識に加え、かけがえのないものを、得たように思えた。
いつも兄のように、付き添っていただいた益富先生は、京都市内のあちこちを歩いて、地層の構造や、 成り立ちなども詳しく解説していただいた。金閣寺の裏道では、その昔、大きな石が地殻変動で真二に割れて、断面が鏡のようになったが、これを見た馬が驚いたという話。谷川の石ころを見て判るものや、崖プチに表れた地層の変化にも興味がわいた。
旧満州で高炉を扱って、操業されてきた先生の話。鉄鋼は国の産業のすべての元だと。先生の貴重な体験も聞いた。大きな高炉の作業では、他の高炉作業と技術的に競うようなこともあって、心理的な気づかいもいるようだ。高炉やキュポラはとても大きくて判然としないが、小型炉のコシキは元勤労学徒のお蔭で井上電機の工場長から、ひと夏の研修を許可され体感できた。
衣笠校舎の北東部でも改革が進み、遂に硬式野球場を造ることになった。そして私達にも学校職員からの要請で、土地の水はけを良くするために、石炭殻を、モッコ担ぎで運び、建設に協カしたとともあった。スタンドとグランドが完成したころ、衣笠球場となった。プロ野球のほか、校内の野球試合もできた。また近くには衣笠山が池に映え、ボートの影も見られた。

↑