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我が青春の京都暮らし

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上西 節雄さん
1970年卒/文学部
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2017.8.1
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我が青春の京都暮らし

 国立大学Ⅰ期・Ⅱ期の不合格通知をもらってから、3月末までの下宿探しだった。文学部事務室で紹介された下宿先は、なんと伏見区深草願成町。赤い鳥居で有名な伏見稲荷大社と紅葉の名所東福寺のちょうど中間地点。近くには京都教育大や龍谷大があり、立命大までは結構な距離だった。父が小学校教員の一馬力。18,000円の仕送り(でもこの額は、我が家の家の1箇月の生活費に相当)で、何とか学生生活を全うするため、通学は市電。当時文学部があった広小路学舎までは、稲荷駅から京都駅行きの一つ手前、塩小路高倉で河原町線に乗り換え、約1時間を要した(片道15円)。この乗り換え駅の近くに、新福菜館という麺が見えないくらい豚肉ののった中華そばを出す店があり、夕方帰るときに何回か立ち寄った。数カ月が過ぎ、無駄な通学時間を減らすため、下宿近くの鳥羽街道駅で乗り三条まで行ける京阪電鉄に変更し、三条京阪からは朝は河原町通、帰りは鴨川の歩道を歩き、大幅に短縮できた。
 大学との距離は遠かったが、我が下宿は東山連邦の高台にあり、大変な景勝地で、西山へ沈む夕日の眺めは素晴らしく、同時に郷里岡山への思いに、入学当初は涙することもあった。賄い無しの下宿だったので、食事は基本的に大学生協の食堂を利用した。素うどんが20円、定食やカレーが45円だった。父からの仕送りが届いた翌日には、隣のグリル「クラルテ」で130円のビフカツライスを食べた。京阪電鉄を利用するようになってからは、鳥羽街道駅近くにあった、財津一郎似の主人のいる食堂でオムレツ定食もよく食べた。
 研究者に憧れていた私は、地理学科の当時専任講師だった徳島県出身の日下雅義先生が、「自分はアルバイトをして贅沢な学生生活をするより、その時間を学問に充てた」という貴重な言葉を教訓として、私自身アルバイトはほとんどしなかった。受講制限(年間50単位)や休講で午後が自由の時など、しばしば今出川通・丸太町通・寺町通などの古本屋巡りをした。欲しくても手の届かない学術書など一番高い所に置かれたその本をただ眺めるばかりのことがほとんどだった。また新京極にあった古い名画を上映している館で、高校時代見ることができなかった「アラビアのロレンス」や「サウンド・オブ・ミュージック」など手当たり次第に鑑賞した。
 下宿周辺での思い出も多い。2日に1度行くことにしていた銭湯の帰りに伏見の銘酒月桂冠の一合瓶に舌鼓。伏見稲荷では、鳥居に書かれた俳優や財界人の名前を見たり、登山道の途中の池で錦鯉の餌として買った長い麩を自分でも食べた。今ほど観光地化されていなかった東福寺の山門の下で、文庫本を読んだりもした。この下宿は大変居心地が良く、4年間変わることはなかった。卒業後も下宿のおじさん夫婦とは年賀状のやり取りを続け、自著を献呈したり、瀬戸大橋開通の年には橋を間近に見ることのできる瀬戸内児島ホテルへ招待もした。

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