2019年 立命館大学校友会は設立100周年を迎えます。

Alumni

活路は必ず開ける

 何かの困難にぶつかったとき、「活路は必ず開ける」という言葉が私の支えである。

 2011年4月、日本史学を専攻していた私は更なる探究心から本大学院へ進学した。学部生の頃にも研究の難しさを痛感していたが、学部と院では求められるレベルも遥かに異なっていた。当然授業は講義式ではなく受講生による発表形式であったし、自分の研究分野以外の知見も多分に必要な世界だった。

 多忙を極めていた院生生活2年目ではあったが、予てより目指していた高等学校の教員採用試験に合格することができた。昼夜を問わない研究の傍ら、限られた時間の中でいかに計画的に勉強するのかを考え懸命に取り組んだ。その中でのまさかの合格に、私は、受験番号を間違えていないか何度も見かえしたことを鮮明に覚えている。

 しかし、教員採用試験の合格に喜びながらも、一方で大きな壁が立ちふさがった。それは、先の見えない自分の研究。「このままでは修士論文が書けない、大学院を修了できない、どうしたらいいのか…。」という気持ちばかり焦る日々が続いた。

 そのような思いを抱きながら向かった先は、修学館だった。修学館は、私にとって特別な場所であった。というのも、学部生時代、卒業論文で行き詰っていたときに「ひらめき」をくれた場所であったからである。この場所で努力を続ければ「活路は開ける」、なんとなしにそう信じて研究を続けた。寒い日に白い息を吐きながら、研究室のある学而館と修学館との往復をしてきた日々が懐かしく思い出されるほどである。そして、努力の甲斐もあり、修学館はまたしても私に「ひらめき」をくれ、無事修士論文を書き上げることができ、修了が決まったのだ。

 迎えた大学院修了式の日。大変ながらも充実した2年間であったと感慨深かった。そして、今でも修学館で研究に取り組んだ日々が私の支えとなっている。困難なことがあっても大丈夫、努力によって「活路は必ず開ける」と。

ノンポリ

私の手元に懐かしい「もの」がある。昭和48年度入学時に配られたガイダンス本である「学生生活」と「学修要項」、年度ごとに配られた「講義概要」(4冊)である。それに、講義ノートが30冊余、もっとも1講義が完結したノートは少ないし、友人の手書きがはさまっているものもある。よくぞとっておいたものである。そんな真面目な学生でもなかったのに。
その「学生生活」に学舎とグラウンドの見取図が附録されている。広げてみると当時の広小路学舎の建物が思い浮かび、胸が熱くなる。
様々な講義が懐かしい存心館、語学の授業を受けた有心館、研究室があった清心館。清心館と研心館の地階には食堂と生協売店があった。その売店で最初に買った本は『二十歳の原点』で、立命大生はまず読まねばならない本であった。また、各講義の参考図書を真面目に買い求めた。高かった。
キャンパスには、学生運動の名残とも言うべき独特の文字が並ぶ看板が立ち、それを背に顔を隠した学生がマイクを持って主義・主張をアジる姿に新鮮さを感じると同時に、政治思想にそれほど関心をもっていなかったことに後ろめたさを抱いた。現体制を擁護したり、資本主義を肯定することが時代遅れであり、保守的な人間は田舎者であるような肩身の狭い思いであった。
早々と鴨川の河川敷に誘われて歌った「国際学生連盟の歌」の歌詞と旋律は妙に心に染みて、感情をゆさぶった。

 学生の歌声に 若き友よ手をのべよ 輝く太陽青空を ふたやび戦火で乱すな 我等の友情は
 原爆あるもたたれず 闘志は火と燃え 正義のために戦わん 団結かたく 我が行く手を守れ

しかし、時代は確実に、穏やかでのんびりした学生生活を約束してくれた。「神田川」の世界に共感し、同棲時代の甘美なムードに憧れた。下宿の隣人G君の部屋からは小椋佳の曲が流れていた。
講演会で壇上に差し出された缶ビールを一気飲みする野坂昭如に心酔し、一乗寺にあった京一会館のオールナイトの上映で、高倉健や藤純子の任侠に拍手・喝采を送った。
そんな訳で、吉本隆明や高橋和巳の本を抱えて歩く上回生の姿を畏敬しつつ、私は野坂の小説を読み、LPを聴きながら、ノンポリの友人や下宿の隣人たちに囲まれて、4年間のノンポリ生活のスタートを切った。

帰らざる衣笠での日々

昭和60年から平成元年までを衣笠キャンバスで過ごした。当時はインターネットやスマートフォンも普及しておらず、その分情報に踊らせられることもなくいい時代だったと思う。
在学中に長州と鶴田のただ一度の対決を生観戦できたのもいい思い出である。

当時は何かあると喫茶店で語り合っていたものである。プロレスや映画や異性のことなど、とりとめもなく語り合っていたものである。以学舘の裏道にクラシック喫茶店があった。憧れの女の子にたまたまその喫茶店がある通りで出会った時に「この子とここで、お茶を飲みたいな」と思ったのだが、誘うことは出来なかった。言い出すことは出来なかった。淡い思い出である。
衣笠という都会の喧騒から離れた空間で、過ごせたのは本当にいい経験だったと思う。

色々と失敗や人に迷惑をかけたことも多かった。あの当時迷惑をかけた人達に申し訳ないと思う。卒業してから30年近くたった。あの当時知り合った人達は今どうしているのだろうとふと思うことがある。

小説や映画などで、よく描かれる題材にリテイクものがある。主人公が過去に戻って人生をやり直そうとする話である。自分に問いかけることがある。(もし大学時代に戻れたら色々とやり直そうとするだろうか)と。
答えは否である。色々と失敗や自分の中での葛藤など、無駄にもがいていたような大学時代だが、それでもその時の自分があるから、今の自分がいると思う。やり直すようなことはしないと思う。衣笠で過ごした4年間はかけがえのない日々だったと心から思っている。

ひたすらに生きてきたこの50年

 かつて日本が もっとも苦しく そして一番貧しかった昭和二十年代に私たちは幼少を生きてきました。やがて 戦争の傷跡を国中に残しながら国民が何とか立ち上がり始めた 昭和三十四年、奇しくも 今の天皇陛下のご婚儀の その同日に 運と縁が重なりあって 立命館大学の門をくぐることができました。
 
 在学四年間につながった八人の 卒研仲間たち、昭和三十八年三月の卒業式を終えた夜更け 河原町を大声で寮歌を歌いながら 闊歩し 約束したことがある
 「われら 毎年、正月三日 平安神宮に集まろうや」と。 新幹線が開通し東京オリンピックがあった前の年である。あれからもう五十回を超えて鳥居をくぐった。 会則があるわけでもない リーダーがいるわけでもない。

 若き独身時代は 仕事のことや彼女のことを語らい 結婚すれば伴侶の披露をし やがて子連れになり そしてその子供たちが巣立ち始めた三十年ほど前からは 夫婦ずれの一泊旅行が加わった。 東京から神戸までそれぞれの近隣の観光地へ案内した。 紅顔の青年だったみんなが 白く、薄くなった。

 私たちは今、八十才を前に、人生を振り返ったとき この八人の仲間のことはまことに不思議に思えてならない。

 八年前に 自分たちの その五十年間を振り返りDVDを創り 伊良子のホテルに機材を持ち込み みんなで見たものです。
 誰もが老いて 旅行はこれが最後になりました。

 だが、立命館大学の制帽は 誰もがそれぞれの地で 今日も かぶり続けています。

新制大学発足の頃

 手荒く消しゴムを使うと破れそうになるザラ半紙にガリ版刷りされた入学試験問題と取り組んだのは1948年2月の中旬だった。京都独特の底冷えと雪花が舞っていた日、私は衣笠校舎で入試をうけた。御所の近くの家の一室を借りて、自炊による学生生活が始まった。戦後3年目とはいえ、まだまだ復興にはほど遠く、食糧難の時代で鉄道は闇米を運ぶ乗客であふれていた。米の配給も途切れがちで、代用食で空腹をみたすのに汲々としていた。家からは月額2,000円の仕送りを受けていたが、映画館以外は娯楽施設もほとんどなく、お金の使い途は闇市以外にはなかった。夏休みに帰省している間に、米の代わりに配給されていたのが鍋一杯の砂糖であったのには驚いた。街の飲食店が米飯を提供するようになったのは翌年からであったと思う。
 専門学校の初年度納付金は、入学金1,000円、授業料3,600円(年額)、謝恩基金500円の合計5,100円であった。しかし、当時のインフレはすさまじく、10月から授業料が、文系は6,000円、理工系が7,200円に値上げされ、月割り計算で差額分を納付しなければならなかった。翌年に新制大学が発足するが、入学金3,000円、授業料9,500円、謝恩基金400円であった。授業料は毎年のように値上げされ、私が4回生になった年は入学時の納付金は総額22,900円となっていた。ちなみに1953年に大学助手として採用された私の初任給は6,000円であり,2年後に教室助手として採用された前田稔夫氏の初任給は10,500円であったそうで、当時のインフレの凄まじさがよくわかる。
 立命館大学理工学部が認可された入学定員は、各学科1部70名(化学科のみ105名)、2部50名であったが、開校年度に定員を確保することは困難であった。それは、旧制中学を卒業後に進学を志望した者は、その年に旧制高等学校、専門学校へ進む途を選んでいたからである。私のように、専門学校の1年を終えて新制大学へ転入した者は極めて少なかった。理工学部1部へ入学した学生は各学科50名前後であったので、1・2回生の時は専門科目以外は各学科混合のクラス編成であった。
 建物施設に関しては専門学校の学生と順次入れ代わるので、当面は教室を遣り繰りして支障はなかったが、新制大学では、一般教養科目36単位の履修が義務づけられ、かつ授業時間の3倍の自習を建てまえとしたので、文部省の認可条件として図書館の整備が必要とされていた。このため、衣笠キャンパスでは戦後最初の建築として、鉄筋3階建ての図書館・大教室が1954年に建てられ、その名称を3号館とした。1号館は戦前に建てられた木造2階建ての講義室であり、その一隅に事務室があった。理工学部事務室・会議室を含む2号館は、3号館の西側にあった大きな池を埋め立てて1956年に建設されている。
 新制大学発足時の電気工学科の専任教員は、戦前の専門学校時代からおられた山本茂先生、平野克巳先生、三亀幸雄先生、戦後2年目に本野亨工学科科長の後任として京都帝国大学から招聴された羽村二喜男先生、元・旅順工大教授の上林一雄先生、新進気鋭の小堀冨久先生が名を連ねておられた。

↑