2019年 立命館大学校友会は設立100周年を迎えます。

Alumni

戦後間もなく入学した頃の思い出
“あんなこと・こんなこと”

旧制の京都市立第2工業学校の生徒だった私達は、国の戦時命令に従って、向日町にあった井上電機の工場で働いていた。それは勉学もできず、食糧も乏しい時代だったが、潜水艦用の部品を造ってきた。そんな最中、昭和20年8月15日、突如として日本軍が敗れ終戦となったのである。
勤労学徒のみんなも、鎮痛のおもいに涙した。学徒は警戒警報のサイレンが鳴れば、西山に退避することになっていたが、山の中で、米機・グラマンから、もの凄い機銃掃射を受けたときは、本当に怖かった。いまも機上の米兵の姿をおもいだす。これは7月19日のことで、後日、西山女学校の勤労学徒さんが、犠牲になられたと聞いたが、終戦も間近だったのでより悔しかった。こんな戦争は絶対に起こしてはならない。
旧制立命館専門学校の前身は、日満高等工業といわれ、マンコウ(満高)の名で広く知られていた。当時の学生には優秀な人が多いと聞いていたので、不安もあったが、父が強く奨めてくれたので、受験に全力を尽くした。また父の兄弟が伸鋼所を営んでいたことも、冶金学へ進むことに影響したかもと思っている。
大川二十二先生の講義は、二元合金各種の溶解度曲線についての、解説だったと記憶している。 先生の講義は、いつも英語のトークで始まり、楽しい雰囲気につつまれていた。専門の技術用語も多かったが、とても理解しやすかった。また先生の高貴な人格や、その暖かいオーラに接し、工学の知識に加え、かけがえのないものを、得たように思えた。
いつも兄のように、付き添っていただいた益富先生は、京都市内のあちこちを歩いて、地層の構造や、 成り立ちなども詳しく解説していただいた。金閣寺の裏道では、その昔、大きな石が地殻変動で真二に割れて、断面が鏡のようになったが、これを見た馬が驚いたという話。谷川の石ころを見て判るものや、崖プチに表れた地層の変化にも興味がわいた。
旧満州で高炉を扱って、操業されてきた先生の話。鉄鋼は国の産業のすべての元だと。先生の貴重な体験も聞いた。大きな高炉の作業では、他の高炉作業と技術的に競うようなこともあって、心理的な気づかいもいるようだ。高炉やキュポラはとても大きくて判然としないが、小型炉のコシキは元勤労学徒のお蔭で井上電機の工場長から、ひと夏の研修を許可され体感できた。
衣笠校舎の北東部でも改革が進み、遂に硬式野球場を造ることになった。そして私達にも学校職員からの要請で、土地の水はけを良くするために、石炭殻を、モッコ担ぎで運び、建設に協カしたとともあった。スタンドとグランドが完成したころ、衣笠球場となった。プロ野球のほか、校内の野球試合もできた。また近くには衣笠山が池に映え、ボートの影も見られた。

わだつみ像と荒神橋事件の思い出

 経済学部1回生であった私は河原町通りに面する広小路キャンバスに通学していた。昭和28年(1953)11月11日、この日、大勢の学生が「わだつみの像歓迎集会」に参加のため、存心館前広場にひしめいていた。凡そ400人以上はいたであろう。当時の学生は全員が学生服 に角帽を着用していた時代でありこの光景は現在の学生には想像出来ないだろう。午後5時近い頃と思うが、市内行進の「わだつみ像」も到着し、京大の学生100名ばかりも荒神橋(今出川橋の南に架かる) 経由で行進して存心館前の正門から入ってきた。
 「わだつみ像」は日本戦没学生記念会によって製作されたにもかかわらず、受け入れ先が決まっていなかった。当初は東大建立が予定されていたが東大の拒否により実現せず、京大に候補が上がったがこれまた大学側が拒否して、ときの末川博総長が受け入れを希望して立命大に決まったのであった。
 事件はこの直前に起きていた。集会が進むにつれ次第に明らかとなった。京大の学生がデモ隊列を組んで鴨川にかかる荒神橋に差しかかったとき、京都市警察はこれを「不法デモ」として渡橋を阻止したため、橋上のやや西寄りで警官と学生がもみ合いとなり木造橋の南側欄干が倒れた、身動きの取れない最前列の学生15名ばかりが鴨川の浅瀬に落下、 うち7名が頭蓋骨折や骨盤骨折の重軽傷を負った。後に分かったが死者も出ていた事件であった。
 存心館前広場の集会は市警に対する抗議集会に替わり、市警本部に対する抗議デモが決議された。その日の夜、市警のある京都府庁を襲撃するから各々ふところに石を抱いて集まれと指示が成された。夜9時頃、京都府庁の市警に抗議デモを行い玄関前で抗議集会を開始した。立命、京大の学生およそ600名、だが催涙弾などで排除された。10時過ぎに再び集合して市警本部長に面会を要求しようとしたが警官隊200名余りが無警告に学生たちに襲いかかり、学生側は後頭部を割られるなどの重軽傷者70名を出した。私も府庁を後にして、丸太町通を西に走り堀川通を左折して東側の通りを南下した、二条城が見える辺りで後方を追っ手が来ないかと聞い見ながら京風の格子戸が並ぶ家並の影に潜み、一緒に走ってきた黒木俊郎氏(佐賀白石高校)に、「新撰組に負われた薩長の志士もこんな風だったかなあー」と言った言葉を65年を経た今も鮮明に覚えている。ほっとして二条城の白壁を見ながらゆっくりと歩い て山陰線二条駅東の下宿までたどり着いた。

追記 私の祖父は明治15年、明治法律学校に入学。当時パリー大学から帰国して教官であった西園寺公望に学んだ。父は西園寺さんがつくった立命館に入学してくれたと喜んでくれた。

English, Me and Ritsumeikan

 I was born in 1937. I was in the second grade of elementary school when the Second World War was over. After several years of its end, we learned Roman letters. Thinking Roman letters to be English, it is a laughing matter today, I entered a junior high school. We used “Jack and Betty” as a text book. Because some students of rich families went to cram schools, they could read English sentences quite easily: “I am a boy.” While thinking it strange to me, the mid-term test started soon. As a result on the examination, regrettably I got zero on that. My father and I attended a meeting related to the result of the exam with our homeroom teacher. At that time he said, “This is hopeless, you know” We could understand what he meant. I could say nothing but “Oh, no! “ And I moved up to the second grade of the junior high school. Fortunately, English was an elective subject: five or three classes a week in the second grade in those days. Some students chose three English classes and two classes of agriculture or commerce, others did five English. Being poor at English, I chose three classes. The students who chose three used to carry human manure to our farm near the school.

 By the way, I happened to read “Our junior high school days” published by Obunsha, a publisher, during the summer vacation. In it I came across some sentences written by Prof. Seiroku Honda at Tokyo University. He lost his father at the age of 11, this unhappy happening caused him to be under difficulties to enter Tokyo Forestry College (present-day Agricultural Department at Tokyo University), in addition he failed in the first term examination, so he tried to jump into an old well in the back of his dormitory to kill himself, but he failed to, because it was too shallow. He thought that if he would die, he decided to study to the degree of death, finally graduated from it at the top of the college. Moreover, he graduated from a university in Germany and became a professor at Tokyo University, though young. That story motivated me to work diligently. His valuable experience spurred me to have decided to study English from ABC. Then, I had very poor knowledge of English, so I couldn’t tell “f’ from “b”, which were written in long hand. I had no money. I engaged on a construction work on the side under the burning sun, getting 85 yen a day, 595 yen in total. Just after getting this money, I went straight to the bookstore with it to buy two reference books for English: “Introduction to English Grammar” and “Introduction to English.” I can’t surely remember the time when I began to study English, but got up at three every morning to study nothing but English very hard. When I was in the third year at junior high school, I learned so hard that English appeared in my dream at night. It was Prof. Seiroku Honda who taught me the importance of working hard.

 The second person who actually led me to study was a certain governor of Saitama Prefecture. Unfortunately I have forgotten his name. He noted he went to a university by train in two hours, studying in the train using it as his study. This story also stimulated me again to study more. When I got salary, I ate only “kitsune udon” (noodles in soup with thin pieces of fried bean curd), saving the rest of a monthly salary for a year in order to go to university. From the following April I got up at five a.m. and ate breakfast in haste, which Mother prepared for, after finishing it, I got on the 6:08 local train for Kyoto at Isa Station (the Sanin Line), it took me two and a half hours to commute to Ritsumeikan University in Kyoto.

 The third man who taught me how to learn foreign languages was the president of the former Osaka University of Foreign Studies. He graduated first on the list. And then he taught German at the seventh high school under the prewar system in Kagosima Prefecture, after the Second World War he taught German at Ritsumeikan. He studied very hard and finally his tatami he kept sitting on got rotten and he used to say: “You must have at least ten dictionaries besides you when studying.” As the territory of my reading spread wider, I came to understand the importance and necessity of having many dictionaries. I think I must show gratitude for having been able to teach English for 50 years thanks to good seniors and teachers for my life. Even now I teach English during the summer vacation for senior high school students.

 Ten years after graduating from the department of literature at Ritsumeikan I started again to study in the college of law at Ritsumeikan. Twenty years have already passed like an arrow since I retired, I have been aiming to be all agog with walking to prevent senility, such as walking the old-time fifty-three stages on the Tokaido Highway, the old-time Nakasendo and roads sponsored by an association for the discussion of historical stories of our city for our purpose of walking. I am exercising translating Japanese from the Asahi Shinbun’s “VOX POPULI, VOX DEI” (天声人語)into English every day, having finished those of 3000 days. I’m enjoying English every day even at the age of 80.I can’t thank Ritsumeikan enough for everything it has done for me, particularly did in my youth.

ミスチルと共に歩んだ大学4年間

 「NOT FOUND」 大学4年の時にWEBサイトで何度見た事だろう。
 僕達の世代は大学時代に丁度ネットが少しずつ普及したきた世代だ。ミスチルの友達(今ではネット社会内で「チル友」と呼ばれる)が初めてネットで出来たのも在学中だ。
 そんな頃、4年生の時にリリースされた曲が「NOT FOUND」である。曲のタイトルにもインパクトを感じたが、何かが見つからない事を「NOT FOUND」と表したセンスがカッコ良いなぁと思ったのを覚えている。
 思えば、Mr.Childrenは大学入学の頃から聴いていた。
 大学の通学途中やアルバイト先でも。当時は今みたいにスマホで、とはいかずCDウォークマンの中で聴いていた。その時によく聴いていた曲を今聴くと、当時の思い出が蘇る。僕にとって、ミスチルの曲はアルバムをめくる様なものなのかもしれない。
 今回、校友会設立100周年記念のエッセイの寄稿にあたって改めて当時一番良く聴いていた「深海」を聴いてみると、サークルでの事や学園祭の事、日常のキャンパスライフが色々フラッシュバックして思い出された。
 家にポスターを初めて飾ったのもミスチルの「深海」だったなぁ、と。
 大学4年間をあるバンドの曲を聴いていてそれでクロニクルを書く、と言うのも中々レアな体験だと思う。こうして文章を起さなければ、当時の写真を再度じっくり見る事も無かったかも。
 最後に。深海の中に「シーラカンス」という曲がある。立命館を卒業されたくるりのお二人が京都音博で桜井和寿さんとセッションされた時は、本当に嬉しかった。

一生の土台となった学びに感謝

私が立命館大学を選んだ一つの理由は総長先生が山口県人で私も山口県人であったことです。高校卒業後、工員として1年間勤めた後、昭和30年4月に理工学部土木工学科に入学。衣笠寮にも面接を受け合格入寮できました。
2回生の時、衣笠寮の役員の代表になりました。昭和31年6月15日、衆議院第二議員会館で全国学生寮大会が開催され、京都の代表として京都の学生寮の現状を発言しました。その際に購入した名刺入れは、現在も使用しています。
昭和31年12月、理工学部の名簿を発行、配布してくれないかという依頼を先生より受けました。昭和23年に立命館専門学校工学科が理工学部へと発展的解消される際に作成したきり、その後が出ていないというのです。そこで、建設会として作成することを引き受け、実質の作業は私が行いました。作成費の寄付の募集など1年がかりで作業を行い、昭和32年12月に完成、配布しました。
4回生になってからは、夜間の授業も受講しました。また、地元の中学校で教育実習も行い、教育職員免許状を取得しました。この間、通信社の世論調査員、家庭教師、土木測量など数々のアルバイトをしながら生活費を稼いでいたことが評価され、アルバイトの模範学生におくられる幤原記念賞を受賞することができました。
立命館大学で学んだことは一生の土台となり、現在も土地家屋調査士の仕事をしています。本当にありがとうございました。

大学時代の思い出

 卒業して56年になる。昭和33年4月、大阪の商業高校から立命館大学経済学部に入学、広小路学舎に通学した。京阪電車で京橋から特急で三条へ、河原町三条から市電で4年間通った。当時の学生の殆どが、黒の学生服と角帽子を着用して通学した。
 正門を入り、不戦の誓い「わだつみの像」があり、存心館・研心館・清心館の学舎で法学部・経済学部・文学部の授業が行われていた。校門横の書店には講義ノートが販売され、授業の抜けた学生には喜ばれ、試験の前にはよく売れていた。また当時、タバコは箱単位でだけでなく、ばら売りとして1本ずつ販売されていた。
 入学時に、羽織に高下駄という出で立ちで大柄な応援団長による校歌斉唱があり、大学というスケールの凄さに驚き、感動した。末川 博総長の「理想は高く、心に太陽を」「未来を信じて、未来に生きよ」という言葉は一生、私の脳裏から離れない。また一回生の通学時、河原町三条で総長にお目にかかり、私が呆然とした瞬間、総長から先に挨拶をうけ、恐縮して返したが、その時、挨拶の大切さを身に染みて教えられた。
 食堂は、「ごはん・野菜付きのハム等・味噌汁」の定食が40円と低額で、さらに地方からの学生には米の持参で割引をするなど、貧乏学生に配慮されていた。時に生卵を注文すると20円を要したが、栄養をつけようとする学生には好評で、当時としては清潔な食卓で定食の日替わりメニュー内容もよく考慮され学生には貴重な存在であった。
 入学当初、自治会から勧誘をうけ、しばらくの間 経済学部自治会室へ出入りした。当時は警職法反対運動などの政治活動が盛んであり、チラシ印刷を手伝ったり、集会に参加したり、またカンパを集めたり、時には河原町でのデモ行進を行ったりした記憶が蘇る。
 クラブ活動は珠算研究会に入部し、珠算教育について発表し合い、常に計算方法などの議論を交わし合って先輩や後輩との交流を深めた。珠算研究会は全関西学生珠算連盟に加盟し、関西の各大学との交流を行うとともに、毎年、関東の大学との交流会も行った。私の4回生時に、母校の清心館で、全日本学生珠算競技大会を開催した思い出がある。
 授業は、研心館4階で大勢の学生と受講し、英語・ドイツ語などの授業は50名ほど入る教室で受講した。出席を確認するために出席票の提出を求める教授もおられた。
 2回生の時、経済学部に経営学科が設置され、経営学科へ在籍した。特に簿記論・財務諸表論など商業教育の実践的な分野を学習した。高校時に商業簿記・工業簿記を習得していた商業科出身者にとっては、経営学科の教科を履修するには適していたと思う。
 また単位を習得する教科の関係で、私の空き時間が多く、それを補充するために教職の教科を受講した。お陰で卒業時に商業科の教職免許を習得することができ、卒業後、高校に奉職することができた。いまでも、少年院で教職に関係した篤志面接活動を行っている。
 平成28年秋に藍綬褒章を受章する栄誉も、母校で商業科教職免許を習得したお陰である。

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