2019年 立命館大学校友会は設立100周年を迎えます。

Alumni

秘蔵の一夜 ~セピア色の思い出~

どうしたら女子が参加してくれるのだろう。このまま誘っても来てくれそうにもない。それに女子抜きで、学園祭に参加しても一向に盛り上がらないし、模擬店の段取りも男ばかりでは心もとない。俺は一体どうすればいいのだ!
昭和51年4月、K先生のゼミの日が訪れ、初の顔合わせということもあり、少々緊張気味に参加した初授業の時だった。いきなりゼミ長を誰がするのかということになった。“我こそは”という者が名乗りをあげることなどなく、ジャンケンに負けたものがすることになったである。一回目のジャンケンは約20名のゼミ生を5つのグループに分け、最後には5人で誰かに決める。そういう段取りで事が進み、ジャンケンに弱かったせいで、まったくやる気のない私がとうとうゼミ長になってしまった。
それ以来、なった以上、ひとつぐらいゼミ長らしき事をしたいと思っていた。そこに秋の学園祭にゼミ単位で模擬店を出すなら大学側から支援が得られるというチラシが配布されてきたのである。
これだ!これがいい。これならみんな喜ぶ。だが、肝心の女子三人が参加してくれるだろうか。ほとんど話したこともなく、断られるのが火を見るより明らかだと思った。そこで一計を案じることにした。
ゼミ一番、否、学部一のハンサムボーイであるT君(北海道出身)が参加すれば、きっと女子3人もスタッフとして参加してくれるにちがいない。「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」と言うではないか。誰が見ても、T君はハンサムという言葉が最もよく似合う学生で、もちろん女子学生にモテた。そしてT君、O君(群馬県出身)、M君(大阪府出身)らに予め声をかけ、根回ししたうえで、ゼミ内でスタッフを募ったのである。
見事、目論見は成功した。我がゼミのマドンナ三人が参加することになったのだ。これで成功はほぼ手中にしたと思った。案の定、男子学生もやる気が出てくるし、マドンナたちはT君の周りに寄り添い笑顔が絶えない。みんな和気あいあい、楽しくなると模擬店の運営もスムーズとなり、早々と売り切れとなった。私にとっては、ゼミ一番の思い出である。
それから数週間後だっただろうか、T君の下宿でお酒とおつまみを持ち込み、話し明かそうということになった。今となっては、何の話をしたのか、思い出せないが、この4人で夜遅くまで楽しく語り合った。2時近くになった頃、もうそろそろ寝るか、そういう具合になったのだが、寝る場所をどう確保するかが、超難問だった。なんとT君の部屋は4畳弱と狭く、極端な長方形になっていたからである。横に並ぶと足が壁にぶつかる。仕方なく縦に寝るしかなかった。すると今度は、部屋の幅が狭いので肩と肩とを押し付け合いながら寝る格好となった。いまでもその時の両肩の感触が忘れられないでいる。いずれも温かい友情を感じた、セピア色の一夜の思い出である。

学園祭事務局奮闘記

入学した1972年頃から学園祭実行委員として活動し、卒業後は学園祭事務局OB会という団体で毎年一回、京都に集い同窓会をやっています。

現役時代、学園祭事務局として目標としていたのは、学生の力でやりきろうというものでした。それ以前は、学生の無責任な活動が目立つ状況でした。例えば代表的なものが模擬店の出店マナーのこと。学園祭の前夜祭は広小路で、後夜祭は衣笠で行われており、それに多くの模擬店が出店していたのですが、そこでの一番の問題は後片付けでした。学生たちは時間が終わるとそそくさと帰り、なんと学生部の職員の方々が明け方までかけて後始末をしてくださっていたのです。はたしてこの状態が学生の自治かと、疑問をもちました。

そこで私たちは出店マニュアルをつくり、参加希望の団体、グループを集めてマニュアルの説明と、特に後片付けの徹底を指示しました。そうしたら、時間がくると学生たちが一様に後片付けを始めるようになり、自分たちのことは自分たちで行うということができるようになりました。当たり前のことですが、こんなことさえできない学生たちだったのです。

広小路でも衣笠でもステージをつくり、その前にはファイアーストームを設置しました。この時の木材はどういう風に入手したかといえば、国鉄(今のJR)からいらなくなった枕木を低価格で買い、レンタカーを用意し、それぞれの各会場に運んでいました。それを5・6段組んだものが立命の名物となり、他大学からもそのノウハウを教えてくれという依頼もくるようになったのです。

パンフレット作りも苦労しました。パンフレットに掲載する原稿が各団体からなかなか集まらず、また広告主を探すのに担当者がいくつもの企業等をまわっていました。講師の手配、映画の選定など、事務局主催の講演会や映画会を企画するのも大変でした。ある年、無理を承知で映画評論家の淀川長治さんに出演を依頼しました。日程が合わず実現しませんでしたが、丁寧なお断りの手紙がご本人から届いたことには驚きました。この時の手紙は今でも大切にしています。

学園祭全体をうまく進行させることが私たちの責任でした。しかし、学園祭事務局が立ち上がるのは、その年の早くても9月位。これでは学園祭の諸企画が充分にできません。そこで私たちは、学友会へ学園祭事務局の常設化を要望しました。がしかし、なかなか受け入れてもらえず、事務局員が自主的に集まって活動をしました。学園祭事務局というと、学園祭だけを行っていたように思われていますが、例えば、他校の自治会に呼びかけ、サマーキャンプを行ったこともありました。

学園祭事務局での活動は、今でも心に残っていますし、OB会のみんなもある意味誇りに思っています。楽しいキャンパス生活でした。

前途多難な1988年学園祭の法学部屋台

 法学部は堅いというイメージが強かった。そこで卒業該当の法学部5回生が中心となり、4回生のO君が屋台の責任者となって、男ばかりで屋台を出すことにした。食べ物は不器用な男たちでは作れず、ヨーヨー釣りにした。学園祭には子供たちや女子高生も来る。奈良教育大学の院に合格した中学の先生をめざす責任者のO君にとって、子供たちに接するのは楽しい事である。さらにウルトラクイズに参加してどこまで勝ち進めるかやろうじゃないかとなった。
 就職活動体験談は週一回発行の青刷り印刷のニュースで情報交換していたが、タイトルが「だいじょうぶyour life」。みんな合格も危ない、就職も危ない、卒業はもっと危ない、どーしよーもない男たちであった。アホな宣伝をしているので、両隣の屋台の女子学生や客の女子学生はクスクス笑っていた。
 理工学部の女子学生は材料力学的に考えて複雑な方法でヨーヨーを11個も釣った。私は大学院に行ける人だと思った。O君がギャグをムチャクチャ言ってた。「あっ、そこのお父さん、子供さんがヨーヨー釣りしたがってますよ」と宣伝。ふたりの子供が釣ろうとしで失敗したので、ヨーヨーを1個ずつあげた。アホな宣伝をしているので予想外にはやく完売した。女子高生が多かった。隣のクレープ売っている屋台がもうこれ以上売れそうにない状態だったので、私たちが買ってすべて食べてしまった。さすがにたった1名の女子学生が中心になってつくったので味は良かった。前途多難な屋台になったのは逆に隣の屋台であった。
 ウルトラクイズはさすがに3回目でアウトになった。これで法学部は堅いというイメージは多少なりともとれたと思う。後輩の女子の友人からは軽蔑されたが・・・・・・。しかし合否は別として、大学院受験者4名、公務員受験者3名とそれなりのメンバーで挑んだはずであった。とはいえこの時、合格又は内定もらっていた者は3名にすぎなかった。本当の前途多難は6回生の私と5回生の2名で、卒業の合否発表は5回生の2名は不合格!私は追試験2科目でギリギリ卒業!高校の後輩の女子は私をどう思っていたのであろうか?

伝家の宝刀 立命館の立地

私が立命館イベントの思い出として忘れられない事は、学生時代勉学に励んだ古都衣笠の環境と卒業旅行でドタバタした東京ディズニーランドとのギャップです。当時の私の所属していたゼミは、今では人名事典にも載っている故安藤次男先生の政治史ゼミでした。(ウィキペディアにも優秀な学生が多く集まったとされています。私もその一人?)
当時建設されホヤホヤの通称パルテノン神殿=西園寺記念館へ入館させて頂いた時の何と誇らしかったこと。ゼミの特殊講義ではことあるごとに利用させて頂き、一生に一度あるかないかの世界遺産金閣寺の敷地内をなんと学校からゼミ仲間と共にゾロゾロと歩いて行ったことが今となってはとても不思議に思えてなりません。光栄なことをあたりまえと思っていました。又、セミナー実習の折には、衣笠セミナーハウス(今もう無いかもしれません。)で勉強会を開かせて頂きました。まるで平安貴族にでもなったかのような景勝広沢池近くでの優雅な勉強会でした。
当時ジュリアナ東京や、マハラジャ等といった事象に踊らされていたバブル時代に、真逆の環境にいたのです。時を経て齢をとったせいもあり、学生時代を衣笠で過ごさせて頂いたこと本当に自慢に、誇りに思っています。
それととても対称的だったのが、卒業旅行で東京ディズニーランドと国会議事堂や、NHK放送局を訪問した時のことです。(もちろん安藤先生も一緒でした。)ちょうどその年、東京が数十年ぶりの大雪となり、渋谷が30cmくらいの雪で覆われてしまったことを覚えています。そんな折、ゼミ仲間十数名くらいで、何と混雑まっただ中の東京地下鉄を利用しながら移動していた時のことです。電車が到着する度にはきだされてくる人波の中で、「あ、福田さん(九州の女の子でした。)がいない」、「どこにいったの。」、「あ、いた。」「よかった。」などと京都とは全く正反対の世界の東京でテンテコマイをしてしまったことを覚えています。当の私も、ゼミ仲間と一緒に泊まった渋谷の宿泊所の住所を忘れてしまい、何と安藤先生じきじきに迎えに来て頂いてしまいとても恥ずかしい思いをしました。同時に一生の思い出を作ってしまいました。オッチョコチョイな私は仲間がスペースマウンテン等に乗っているのを尻目にして、雪の降る中、相合傘で安藤先生の説教を延々と受けてしまうハメとなってしまいました。今では本当に懐かしく有り難く、光栄に思っています。後輩達に言いたいのは、その時その時の時勢に流されず、計画性と信念をもって勉学に励んでもらいたいと思っています。
(立命で勉強している現役学生は本当に幸せなんです!)

ベトナムの白い百合

昭和40年。学園祭が間近な時の話しである。法学部2回生Kクラスでとんでもない話が持ち上がった。
普段はおとなしい背の高い男(I君)が相談を持ちかけた。学園祭に舞台劇を上演しようというのだ。Kクラスには演劇部の学生はおろか、舞台に立って見栄えするような顔の男は一人としていなかった。I君は、高校の恩師の原作「ベトナムの白い百合」を舞台劇として構成し学園祭で上演したいと提案した。当時、ベトナム戦争は泥沼化し、南北ベトナムは焦土となっていた。
原作の内容は、南ベトナムのサイゴン大学の男子学生と恋人の女子学生との悲恋。南ベトナム民族解放戦線のリーダーとなった男子学生は官憲に追われる。女子学生はその逃亡を幇助した罪で逮捕され銃殺される。I君の提案の趣旨を聞いて、Kクラス全員が賛成した。直ちに、配役、スタッフ、大道具などの裏方の担当が決った。
ところが、この劇の主人公はチュイランという女子学生である。他にも女性の出演者が沢山必要であるが、Kクラスには女性が一人もいなかった。I君は勇敢にも、女子寮の「春菜寮」に参加を要請した。春菜寮も寮を挙げて参加することとなった。I君と春菜寮の寮長さんが配役を決め、研心館をはじめ空いている教室を借りて猛練習を開始した。私もベトナム人に似ているとかで小作人の役と音響を担当することになった。同じ音響担当のK君はRBC(学友会放送局)の部員だったので、音響効果はK君とRBCの技術部の協力で素晴らしいものとなった。
舞台稽古が始まって直ぐに分かった。Kクラスも春菜寮の誰もが演劇の経験のない素人集団であった。小中学校の学芸会レベル。ただ熱意だけがあった。猛練習と並行して、舞台衣装が春菜寮の皆さんの手縫いで着々と整った。当日の舞台は全員の熱演で、大成功だった。ラストシーン。杭に縛られた女子学生がスポットライトの中に浮かび最後に叫んだ。「ベトナムの自由と独立、万歳」と。一瞬の間を置いて銃声が響いて、スポットライトが消えた。
後日、春菜寮の招きで反省会があった。Kクラスの男どもが女子寮を訪ねた。女子寮に入ったのは後にも先にもこの時一度きりである。あの時の、Kクラスの紳士諸君、そして春菜寮の淑女の皆さん、お元気ですか。

学園祭のお笑い立同戦

今も続いているかは存じませんが、かつては学園祭でも立同戦がありました。
「お笑い立同戦」でございます。
立命館と同志社から数組のお笑いコンビが出演し、漫才で戦っておりました。
開催は、それぞれ立命館と同志社の学園祭。
私は同志社の方には行っておりませんが、同じコンビが同じネタを披露していたと伝え聞いております。

客席は100名ほどのステージだったでしょうか。
もちろん満員です。
立ち見もいました。
最前列は両校の審査員です。
ホームの立命館とアウェーの同志社。
さあ熱戦が始まりました。

私は福岡出身です。
関西のお笑い文化の洗礼は入学時から受けていましたが、さすがは立同戦、レベルが高い。
審査員は、スケッチブックの得点票をパラパラとめくって1点から10点までをつけていきます。
審査員によって笑いのツボが違うらしく、客席から「エーッ」と声が上がるような点数もありました。

どちらも甲乙つけがたい白熱した舞台でしたが、結果としては立命館の勝利!
ワーッと沸き立つ構内。
大変面白うございました。
しかし後日、アウェーの同志社学園祭では同志社が勝ったと聞きました。
ホームで勝ってアウェーで負ける。
これが忖度というものでしょうか。
おあとがよろしいようで。

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