2019年 立命館大学校友会は設立100周年を迎えます。

Alumni

現役世代に伝え続けたい、「学ぶとは何か!」

小生が4回生(理工・電気)の時は1981年、新制大学発足時の名誉教授の先生方と、その教えを受け継ぎ持論確立過程中の新進気鋭の現役の先生方の2世代の学問に対する姿勢に接することが出来ました。今回の記事は戦中・戦後の混乱の中で励まれた新制大学発足時の3人先生についての感銘の記憶を思い出しながら、肉声に近い形で書かせて頂きます。

①小堀冨久夫先生: 「科学技術を学ぶということは、歴史・思想を学ぶことである。君らのテストの答案は、単なる知識の羅列である。」。これは電子工学のテスト後の授業で、AM、FMの通信方式の違いを問う問題であった。「AM方式は何故採用されたか、その後、FMに代わった理由が書かれていない。FMの優位性を記した答案もあったが、前提となるサンプリング方式の証明もきすべきである」、と歴史・思想の意味を理解する必要性を激しく指摘され、小生は離脱、単位は放棄しました。
②三亀幸雄先生: 「無我・座禅・精進を怠るな、結果は恐れず精進せよ。」。「外に向かって覓る勿れ、己の鋤で耕せ」。還暦を過ぎた今になってやっと、目先の利益、短期的な視野で動いている現在の日本への警告にふさわしい、ということが解かりかけています。
③井上勅夫先生:「ビオ・サバールの法則」での講義で、黒板に式を書かれ、記号ひとつひとつに、「これ(アルファベット)は何ぞや、では次にこれは何ぞや……、この小さく書かれているこれは何ぞや……?」徹底的に疑問を虱潰しに理解する姿勢、手を抜かない姿勢に感動しました。

話せば尽きることはありません。当時の現役の先生が自らの学説を立て、国内での学会や世界に問う姿勢・情熱に感動すると共に、その根底にあった思想は、紹介した先輩先生方の物事を鳥瞰し、決して手を抜かない厳しい物事に取り組み挑戦する思想に立脚したものだと思います。それが、退職した年代にやっと本当の意味が判りかけてきました。

大学で学問に励んでいるみなさん、社会で御活躍の皆さん、学部、分野は違っても、上記のような言葉を片隅に置いて日々、信じる道を突き進んで下さい。

三亀先生、井上先生の肉声(短時間)を持っており、時々当時の写真を見ながら授業を思い出し、奥の深さに感銘している昨今です。

私の先生

文学部校友会の会報第10号が届いた。そこに今年度で立命館を退職される方々の写真が掲載されていたが、その中に私の先生がいらっしゃった。

先生は大変な博識でいらっしゃり、研究職を目指す私のために、貴重な時間を割き、懇切丁寧にご指導をして下さった。サークルにも所属しておらず、親しい友人も数少ない私にとって、先生と西洋史学について尽心館の研究室で話し合った日々は、かけがえのないものである。

あるとき、先生は「研究職を目指すなら」ということで、あえて国立の他大学の大学院を薦めて下さった。それとともに、その大学を受験するために必要な第2外国語や卒業論文についても、きめ細かな研究指導をして下さった。ドイツ語論文の講読を1対1でやっている際、「これぐらいの文章、読めなきゃ駄目だよ!」とご叱責され、私は自分の至らなさを恥じるとともに、辛抱強く接して下さる先生の懐の深さに感動した。

その後、国立の大学院に合格・進学したものの、常に研究指導を親身にアドバイスをして下さったのは、その先生であった。移った先の大学院で、自分の才覚の限界や将来への不安を感じ、研究職を諦めることを先生に申し出た際も、何一つ私を責めることはなく、励まして下さった。そのまま私は私立学校で世界史を教える社会科教諭となった。今でも先生のご専門である分野を教える段に至ると、無性にあの大学生活で先生から学恩を賜った日々を懐かしく思う。

少し早いですが、先生、ご退職おめでとうございます。少しでも先生に近づけるように、精進して参ります。

納得のベストセラー!

確か、昭和50(1975)年7月初旬だったように思う。夏休み前に、京都大学から有名な先生を招いて、夏季講義があった。単位取得なしで、その都度、先生は入れ替わったと思う。つまり一回かぎりの授業だった。何故このようなことが行われたのか、知る由もないが、経営学部と経済学部の共通授業として行われ、様々な先生の講義が行われた。そこに著名な宮崎義一(1919~1998)教授が来られたので、これは是非受講したいと思い参加したのである。
それまでは、経済学の授業と言えば「原論Ⅰ」と「原論Ⅱ」が代表的なものであり、その中身はマルクスの資本論と近代経済学(マクロ理論とミクロ理論)など、いわゆる理論中心のものだった。そのため実証的な経済学的アプローチについては、ほとんど学ぶことが出来なかった。これは経営学部ということもあったのだろうが、当時はまだ、実証主義的な経済学が未発達で、理論のみが先行している時代だったこともあると思う。
授業が始まると、先生の真摯な姿勢から発する言葉の数々、それに加え極めて実証的な論証にしだいに引き込まれていった。他大学での授業であり、しかも学生のレベルがおそらく京都大学ほど高くないにもかかわらず、まったく手抜きをすることなく、授業を進めていく姿勢に感動した。普段は物静かで、こつこつと一途に研究されている雰囲気が身振りから伝わってくる。本物の学者とは、こういう人をいうのだと思った。
その授業内容は、多くの大企業の自己資本比率が上昇して、内部留保が高い伸び率を示しており、金融機関から依存せず経営が成り立つ状況になっているというものだった。その典型がトヨタ銀行と呼ばれるくらい自己資金が潤沢にあるトヨタ自動車。このことから金融機関の貸付先として、優良企業が益々先細りとなり将来的に経営状況が困難になる可能性があるのではないか、そのような指摘だったように思う。講義後、私は、正直、こんな先生について学びたいと思った。実証的分析に基づき経済現象を読み解く素晴らしさを体験することができたからだ。その後、大学在籍中に米国のノーベル経済学賞を受賞した二人の経済学者の講演を聞く機会があったが、いずれも宮崎教授の講義の方が何倍も良かったのである。
そして先生の授業もすっかり記憶の彼方に消えていた平成4(1992)年、『複合不況』(中央公論)がベストセラーとなり、新語・流行語大賞を受賞された。この報を聞いた時、先生の授業を思い起こし『複合不況』を書店で買い求めに行き、帰宅後いち早く読んだ。
――あの時の講義内容が見事に生かされている。ずっと一貫した姿勢で研究されていたからこそ実を結び、この本に体現したんだ!
私はひとり納得した。あれだけの実証的研究をされている方なら当然だと――。
私にとって、大学時代の忘れ得ぬ講義である。

佐伯千仭先生の最終講義

私が立命館大学に進学した理由は、末川博先生の自叙伝『彼の歩んだ道』(岩波新書)を読み感銘したことと、先生との劇的な面会で、法学部を選んだ理由の一つは「死刑制度について深く研究してみたい」と思ったからです。そして佐伯千仭先生との出会いは1回生のとき、1969年の法学部学術講演会でした。その日の講演者は団藤重光東大教授でしたが、講師紹介で佐伯先生が登壇すると聴衆からものすごい拍手と声援が飛び、先生の人気を知ることになりました。2回生となり先生の刑法総論を受講しましたが、弁護士を兼業していた先生の講義はその実践と深い研究活動に裏打ちされたもので、毎時間すごく感銘を受けました。また先生は「法制審議会刑事法特別部会」の弁護士代表委員を務められていたため、時々その審議会の様子などを話され、「どんなことがあっても今回の刑法改正は阻止しなければいけない」と熱弁を振るっておられました。
3回生になり先生の刑法各論の講義を受講しましたが、同時にかなり難関の「佐伯刑法ゼミ」にも入会することができました。ゼミのコンパでは先生の隣に陣取り、先生から昔話を聞きながらお酌をしましたが、先生からもお酌をしていただき、下戸の私でしたがそのときのお酒のおいしさは今でも忘れることができません。先生は73年3月、65歳で退職されましたが、最終講義の演題は「刑事裁判における自由心証主義の問題」でしたが、普段の講義より一層熱が込めらていました。私もその3月に大学を卒業し、紆余曲折を経て高校社会科教師となり、93年から大学講師も兼務し、現在は立正大学で教職科目を担当する非常勤講師をしています。
88年11月、明治大学で「陪審法施行60周年記念」のパネルディスカッションが開催され、先生もゲストで出席されましたので、私も駆け付け先生とお話しすることができました。97年5月には、日本学術会議刑事法学研究連絡委員会主催の「死刑制度」に関するパネルディスカッションが日本学術会議講堂で開催されましたが、先生も89歳とは思えない矍鑠とした張りのある声で「死刑制度のゆくえ」という演題で特別講演をされました。先生は、松川事件や4大死刑再審無罪判決等を踏まえて、「死刑制度は将来廃止されなければいけない」と結ばれ、聴衆者に感銘を与えましたが、それは私にとって先生の「最終講義」となってしまいました。98年4月、佐伯先生の「卆寿の祝い」に誘われましたが、急な転勤が入ってしまし出席することができませんでした。
末川先生は77年2月に逝去され、佐伯先生も2006年9月に逝去されましたが、両先生からから教わった「学問に立ち向かう姿勢」と「人間の生き方」を受け継ぎながら、私はもうしばらく大学生たちと一緒に学んでいきたいと思います。

自分らしく

私が大学時代に一番思い出に残っている授業は≪芸術論≫の授業でした。私は美術、芸術があまり好きではありませんでした。その理由は、高校までの美術の授業では世界的に≪名画≫と呼ばれる作品について作者の描きたかった意図やその背景、歴史について学んでいたからです。名画には解釈の正解があると思うと、少し構えてしまう自分がいました。しかし大学時代の授業では、日本の著名人の中にも世界的に有名なモナリザを美しいと感じない人もいるという話が講義の中で出てきて、自分の世界が広がったように思いました。美術作品にはもちろん作者の表現したい意図や思いがあります。しかし世の中の多くの方々が素晴らしいという名画であっても、その解釈は自分らしく、感じたまま、思ったままを楽しんでいいのだと感激したのを忘れることができません。

お世話になった職員さん

立命館では多くの皆さんにお世話になりました。教員については結構出ると思いますので、私は縁の下の力持ちである職員さんについて記したいと思います。
国際関係学部学部卒業時(1995年)にお世話になった職員さん、国際関係学部事務室の三島課長(定年前には保健センター勤務だったような気がします)についてご紹介しましょう。社会人であった私が編入学試験を受けようか迷っていた時に「とにかく受けてみてよ。受けてみないと始まらないよ」とやさしく言って背中を押してくださいました。
さらに、一本のシャープペンシルを手渡し「がんばってね」と。オープンキャンパスで配布していたものと思われます。「きみをまってるぜ」と書かれており、思わず笑ってしまいましたね。
このシャープペンシルのおかげで迷わず受験し、修士課程まで修了しました。今このシャープペンシルは書けなくなりましたが、捨てられずにとってあります。「きみをまってるぜ」の文字も消えてしまいましたが、私の心の中にはしっかりと刻まれております。三島さん、ありがとうございました。

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