2019年 立命館大学校友会は設立100周年を迎えます。

Alumni

中坊公平先生の思い出

 4回生の時、中坊公平先生をはじめとして、法の現場の第一線で活躍される弁護士 の先生方が担当してくださる「法政特講K」という講義が行われた。先生方が実際の裁判の事例をもとに、法と社会のかかわりを語ってくださった。
 恥ずかしながら、当初中坊先生のことをよく存じ上げなかった。この年度、卒業するための単位数に不安のあった私は、とにかく多くの講義に登録し、この「法政特講K」もその一つだった。
 初めて講義に出た時、とにかく大講義室(存心館801号室)は超満員で、立ち見が出るほどだった。そんな高名な先生なのだと、この学生の数に実感した。
 特に印象的だったのは、「森永ヒ素ミルク事件」訴訟のお話。「被害に遭った子のお母さんは、一様に自分自身を責めた。『私がミルクを飲ませたのが悪かった。』『乳の出ない自分が子供を産んだために…。』それが人間というものなのだと感じた。」そんなお話を涙ながらになさる先生のお姿にただただ感動した。これまで、法が社会にどう生かされているのかを理論としてのみ学んできた自分にとって、現実の社会に法をどう生かすかを考えるとてもよい機会となった。
 さて、「この講義の終わりには、実際にあったケースをもとにして模擬裁判をやって みよう。」と中坊先生が仰った。それも、「この模擬裁判で、役をやってくれた人にはこの講義の単位を必ずあげる。」とのこと。私は迷わず応募した。原告側弁護士の役だったが、書類をじっくりと読んで、勉強した。
 模擬裁判では、現役の弁護士の先生に頼り切りの状態だった。それでも中坊先生は、役を演じた私たちを誉めてくださったうえ、大学の近くの喫茶店でケーキまでご馳走して下さった。あの時の穏やかな先生の笑顔が咋日のことのように思い出される。
 先生が弁護士としての実人生を通して掴んでこられた人間の真実、人との触れ合いを大切にする生き方。全人生をかけて授業に臨まれる姿が今も心に焼き付いている。

中谷猛法学部長

中谷猛学部長はそれ以前、ゼミを半年担当し、フランス政治思想がテーマで、理解できたレベルで自分の言葉で発表しなければいけなかった。もちろん質問攻めの厳しさであった。私は民科法律で木藤講師から厳しい指導を受けているので慣れていたし当たり前だと思っていた。民科法律1回生の時のように全員「どこがわからないのかそこがわからない」という事にならないように解説していただいた。2回生のN君は民科法律でわからなくてあきらめたようで、酒をよく飲みに行っていた。中谷先生は長年、長崎造船大学で勤務され、交響楽団の顧問をされているのでプライベートな場ではカーフェリーの話や音楽の話ではずんだ。意外と政治思想の話はしていなかった。こういうことなのか、私は船舶工学科大学院はもうちょっとのところで不合格であった。今、造船所で働いていないもんなー。でも私は結果だけで判断しないで道筋を大切にする(京都大学入試の数学と同じ考えをするなと言う友人もいたが)ので、なぜか今、量子力学の専門書を読んでいる。中谷先生の教え子は長崎の造船所の取締役をされたので、政治思想が仕事に直接生きるのではなく、その人の人生で役に立つのであろう。文学部出身の友人は仕事に全く生きないと言ったが、中谷先生はフランス文学である。文学、音楽、芸術がなかったら人間関係は空虚になる事は私自身も知っている。当時をはっきり覚えているのも原点がそこにあった。

西村幸雄先生は人生の恩師でした

学生時代(1957年)の日記を見つけました。以下は6月20日~21日の文章です。

学内奨学生のハイキング&キャンプに参加した。「雲が畑」を経て貴船口。学生課からは、西村課長と久保氏のお二人で学生は9名。梅雨期のことだから、天気を心配したが、途中では降られなかった。ただ出発の際は、降り始めたり、明るくなったり、ちょっと判断がつかなかった。 だから決行したわけだ。
バスを降りてから1時間40分、木間道を通って何回か沢を渡って、テントを張れる広さの台地を見つけた。草の繁った案外傾斜の急な、だが低い山が周りを幾重にも巡らしている。山間の小道をぐるっとひとまわりすると600のピークが二つ見える。曇り空の中に、さっき星が一つだけ大きく光っていた。すると、また一つ。しかし間もなく消えてしまった。緑色のテントを二つ張って、その側にグラスシートを広げて夕食にした。スキ焼き鍋を囲んだ。灯りはキャンドルが三つ揺れていた。そのローソクが燃えつきてしまう10 時過ぎまで話がはずんだ。西村先生の学生時代、それも戦場での思い出話が中心だった。時折話が途切れて、しのびよるような沈黙が訪れる。その瞬間周りの闇に眼をやる。
「君たちの時代は、 やはり恵まれているよ。いくら暗いといってもそれでも未来はあるし、暗い谷間に青春を奪われた十数年に比べれば息苦しさの度合いが違う」。戦場での人間否定。(しかし人間肯定の思想は今の西村先生の血肉となっている)。右翼でも左翼でも、民衆をほんとうに幸福にできるものがほんとうのものなのだ。人間を前提にしたものが全てだ。もう、ロウソクは残り少ない。時々蛍が誘われたようにスーッと近づいてくる。かくしてテントに入った。途中一回だけ眼が覚めて後は朝まで眠り続けた(12時から5時)。朝は早かった。胸まで伸びた草をかきわけながら15分ほど歩いた。ここを抜ければ直ぐに何処かに出られると思ったが、道は次第に細くなり、急な坂道となり、高い山が立ち塞がった。それで来た道を戻った。
服が朝露でぐしょぬれだ。……出町柳には1時近くに着いて出町南寮に直行。風呂に入ったら疲れがどっと出た。

西村先生は、百万遍寮の舎監もなさっていました。出町南寮の新入寮生歓迎会や秋の寮祭にも参加くださって一緒に祝杯を重ねたのでした。 この文章を記述しながら、青春時代の思い出が蘇りました。
その数年後には、わたくしの結婚式に「頼まれ仲人」としてご夫妻が参列してくださいました。ほんとうにお世話になりました。

広小路時代の保健体育

広小路学舎で2年間、衣笠学舎で2年間学んだいわゆる最後の広小路世代です。
初めて、広小路キャンパスに足を踏み入れた時の雑然とした狭いキャンパスに唖然とした思いがあります。建物ばかりで、夢に見たキャンパスらしい華やいだ光景はどこにもないと…。
1・2回生の間は保健体育があるわけですが、いったいどこで体育をするのかと大きな疑問がわきました。グランドらしいグランドもなければ、体育館も見当たらない。どこでするの?という大きな疑問でしたが、少しずつ事情がわかってきました。まず、鴨川沿いに小さな体育館が残っており、テニスコートがありました。バレーボールをしたわけですが、あまり記憶に残っていません。しかし、御所のグランドを使ったソフトボールの授業は鮮明に覚えています。清和院御門をくぐって、仙洞御所の南にある富小路グランドの体育は楽しかったです。緑に囲まれたグランドは気持ちの良いもので、それが御所にあるグランドで授業を受けていることは、「京都に来たんだなぁ」という実感でいっぱいでした。全国から集まった仲間と大きな声をあげて、楽しく過ごした時間は忘れられません。

永井外代士教授の「分析化学ゼミ」での思い出

当時の「分析化学ゼミ」には20人近くの学生がおり、そのほとんどが気の合った仲間だった。所属するゼミの選択時、人気があった「有機化学」、「生物化学」、「高分子化学」等のゼミは成績により足切りがあったが、「分析化学」のゼミの説明をされた永井教授の「分析化学希望者は必ず受け入れます」の一言で、気の合った仲間と大勢で「分析化学」を希望して全員受け入れて頂いたことを思い出す。全ての研究機関において分析化学なくして日本の科学研究は成り立たないほど、重要な分野であったことを卒業後に思い知り、永井教授の「将来必要とされる化学技術を様々な学生の視点で考察して欲しい」との考えからだったのかと回顧している。
ゼミでの研究課題はさておき、様々な学生の視点を求められたことに応えるかのように、最後の大学生活である4回生を有意義に、お互いの心にしっかり記憶を残すのも大きな目標にゼミの仲間と意識を共有し、何かを「やるぞ!」の号令ひとつで皆は動いた。
夏のゼミ旅行は、「よし!黒部ダムへ行こう」の一言で2泊3日の旅行が即決定。信濃大町の旅館では、花火大会が目前に見えるのに、部屋で「ポン、チー」のマージャン大会。翌日、黒部ダムを見学して2泊目の宇奈月温泉のホテルでは朝まで乾杯。楽しい旅行に、「ゼミでこんな旅行は初めてだ」と永井教授を驚かせた1回目。
次はクリスマスパーティー。ゼミの仲間はほとんどが地方の出身で、ゼミで忙しく?全員彼女も無くて、クリスマスとは縁がなく、「ゼミでクリスマスパーティーをやろう!」の一声で準備開始。誰が言うでもなく「実験室でやろう!」と決定。教授には内緒で会場が出来たら、ごり押しでお願いする事にして!早速、ケーキ、お酒、飾りつけなどを買いに全員が走る。手のすいた者はフラスコ、ビーカー、シャーレなどを丁寧に洗う。準備が出来、永井教授や松田十四夫助手にお願いすると永井教授「いいでしょう、でも、こんな実験室のパーティーは初めてや」と驚かせた2回目、笑顔だった。いよいよ、ビーカーで乾杯、フラスコのウイスキーで水割り、シャーレでケーキなど。奇想天外なパーティーの思い出からは、今でも先生方や仲間の笑い声が聞こえてくる。
さて、最後は山陰方面へ出かけた卒業旅行。当時の国鉄が順法闘争とやらでダイヤはでたらめで鳥取で足止めを喰らいながらも、たくさんの思い出と共に帰京、解散。そして、それぞれが就職や進学へ旅立った。あの卒業旅行でのハプニングは多くの事を許して頂けた学生の身分から、社会に出れば思いがけない困難に出くわすこともあるよとの暗示だったとも思える。
こつこつ実験を繰り返す日々に、時折気の合った仲間とのバカ騒ぎにもお付き合い頂いた先生方。今も心に残る私達の「分析化学ゼミ」は永井教授の「皆、まとめて面倒見るよ」の一言で始まった素晴らしいゼミだった。感謝。

名物教授

昭和60年代当時、私が立命館法学部で教鞭を受けた中で最も印象に残る人は中坊公平氏でした。後に「平成の鬼平」と呼ばれ、TV番組にもよく出演されていたその人です。「森永ヒ素ミルク中毒事件」や「豊田商事事件」の被害者救済弁護団長をリアルタイムで務め上げておられ、興味はつきませんでした。
当時、バブル期の地価高騰による「地上げ屋」問題等もあり、法学部の学生にとってはもってこい(?)の商取引大事件が全国のあちこちで起こっていました。その頃の情報ツールといえばもっぱらテレカと書籍がほとんどで、携帯電話を所有している人といえば、妙心寺の南門によく停車していた年配のタクシードライバーの方くらいだったことを覚えています。しかも、現代のお笑い芸人・平野ノラさんがよくネタで使っている肩掛けショルダーバッグの重量物そのものでした。その意味で私はもう生き証人になってしまったのですよね(笑)。よって対面(口頭)契約や書面契約なるものが昨今の電子商取引にとって代わられることなど想像もできない時代でした。アナログ的な契約手続は非常に重要な意味をもっていたことは言うまでもありませんでした。
中坊先生の講義は当時夏期法政特殊講義と称して開かれていました。周囲を全て山で囲まれた京都市の地勢上、ただでさえ熱のこもり易い土地柄の上、存心の801や、701といった大教室も立ち見(?)や立ち聴講(?)の学生達で入口、出口のドアがあふれかえっていて、まるで蒸し風呂のサウナのように熱気を帯びていたことを覚えています。それにも増して中坊氏の興味のつきない語り口調に暑さも忘れ魅了され聞き入っていたことを忘れません。卒業した後もいろいろなメディアを通して中坊氏が現場を識る本物の弁護士だったことをいやというほど思いしらされたことは言うまでもありません。
波乱万丈の人生を送られ逝去された恩師のご冥福を心よりお祈り申し上げると共に、当時感情多感で若輩の法学部生だった私達に法の精神とは何たるかを易しくわかりやすく教鞭して頂いたことを今でも誇りに思い、感謝している次第です。

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