大家さんとの縁
昭和57年3月、慣れ親しんだ京都での下宿生活を終えると、大家さん夫婦とのつながりは年賀状だけとなった。
平成4年のある日、予期せぬ知らせが舞い込んだ。大家さんであるおじさんが81歳の生涯を閉じた。穏和な姿が脳裏に浮かんだ。安らかにお眠り下さい。
その2年後の平成6年4月、卒業して12年ぶりに私はJR花園駅に立った。時の流れは少しも感じることなく引き寄せられるように大家さん宅へ急いだ。ほどなく到着すると全てが当時のままだった。長い春休みを終え帰省先から久しぶりに戻った、そんな雰囲気さえ漂った。ためらうことなくチャイムを鳴らした。おばさんは当時と変らない愛想で再会を喜んでくれた。そして、無事仏前に手を合わしおじさんの冥福を祈ることができた。
その後、おばさんとのやりとりは順調に続いたが平成11年、悲しくもおばさんの訃報が飛び込んできた。奇しくもおじさんと同じ81歳であった。これで大家さんとは縁もゆかりもなくなってしまったのか。そのまま長い月日が流れた。
しかし、ついに平成27年5月、その時が来た。再び花園駅に降りた私は目を疑った。昔の面影など微塵もなかった。不安と緊張感が交錯したまま大家さん宅を目指した。最後の角を曲がり前方にゆっくりと視線を移した。あった。よかった。全然変っていない。実に前回の訪問から20余年、卒業してから33年が過ぎていた。
突然の訪問の上、初対面であるにも関わらず、息子さん夫婦に快く迎え入れられた。ようやくおばさんの仏前に手を合わすことができ長年の夢が叶えられた。
300年前からの家系が残る由緒ある大家さんの母屋の東側に2階造りの白い蔵の下宿生の建物があった。この時蔵は建て替えられてはいたが、白い外観が当時と何の違和感もなく私の記憶の中にすっと溶け込んでいった。
私は1階で母屋に最も近い四畳半の部屋だった。格子戸をくぐりぬける出入口を大家さんと共有していたので顔を合わすことも多かったが、今では考えられないような接点もあった。帰りが遅くなると干した洗たく物を納屋へ入れてくれたこと、部屋代を直接手渡していたこと、大家さんの台所で電話の取り次ぎをさせてもらっていたこと・・・など。
日々の中では、私は大家さんが発する京都弁が大好きだった。「おはようさんどす」「お帰りやす」。ちょっとした立ち話の中でも「そうどすか」「おおきに」、季節の折々では「暑おすなあ」「寒おすなあ」。また、おばさんがおじさんに呼び掛ける「おじいちゃん。おじいちゃん。」はなんとも心地よかった。ほっとする生活の声であり、夫婦仲のよさが垣間見えた。
平成29年8月15日、機会あってお盆にお参りさせていただいた。感慨無量だった。大家さん宅を下宿先と決め、初めておばさんと話をした母屋のこの部屋で、約40年の時を超えて今、息子さん夫婦と会話し、亡きおじさんおばさんを共に懐かしんでいる。下宿人と大家さんとの縁。そこからつながる想いは少しも色あせることなく、今も私の心の中に映し出されている。
立命館大学吉田寮
「京都市左京区吉田牛の宮町24」この住所に、立命館大学吉田寮があった。東大路通りの当時の市電「東一条」の電停と、鴨川との中間に位置していた。何しろ昭和34年である。寮の造りは勿論木造で2階建て、その上「つっかい棒」がしてあった。食堂・風呂・便所と洗濯場は別棟、便所はボットン式、洗濯機はなく洗濯槽式。ストーブは使えず火鉢。京都の底冷えの寒さが堪えました。広くはない庭には、銀杏の木が数本植わっていた。従ってファイヤーストームは盛んにやった。京都大学の寮も傍にあり静かな住宅地でした。その当時の舎監は、「経済哲学」の梯 明秀名誉教授ご夫妻で、慈愛に満ちた先生でした。寮生は1回生から4回生迄で35名、運営は非常に民主的で、入寮後半年間だけは2人部屋、その後の毎年毎の部屋替えは抽選で、1回生の後半からは1人部屋も可能だった。当時のエピソードを紹介してみよう。
その1 友人が、洗濯槽に粉石鹸と洗濯物を入れ、汚れているので暫く漬けておくと言って、一週間放置していたら、「ボウフラ」が沸いていた。
その2 夜だけ開くラーメン屋「たぬき」。百万遍寮の南にあった食べ盛りの学生に人気のラーメン屋で、小母さん2人で営業、確か一杯40円だったのでは・・・。
その3 廃寮が決まった時、寮を訪れたら、食堂の壁に、「炭鉱を出て 四年(ヨトセ)の月日過ぎ去りて 寮(イエ)と別れてさいはての地へ」と書いてありました。
多感な時期の4年間を吉田寮で過ごした、同期の寮友12人が旧交を温めようと集い出して10年、今年も11月中旬嵯峨嵐山で泊まり、紅葉真っ盛りであろう嵯峨野を散策します。今年の参加者は8~9人になりそうです。
銀閣寺参道の下宿
当時、校舎は河原町通広小路にあり、生協の3度目の紹介で決めたその下宿は、観光客で賑わう銀閣寺参道の土産物屋さんの2階でした。大学へは、神戸市長田区の実家から通えないほどの距離と時間ではなかったのですが、そこは一人っ子の特権で、無理を言って贅沢をさせてもらいました。
六畳一間の部屋には机と冷蔵庫があるだけで、賄いや風呂もなく、トイレへ行くにも庭へ降りて用をたさなければならず、齢60をこえ夜中に起きる回数も多くなった今ではとても考えられない環境でした。
風呂といえば、白沙村荘の近くに銀閣寺湯という銭湯があり、そこでの羨ましくも妬ましい光景を思い出します。巷は、かぐや姫の神田川という曲がヒットして数年後の頃で、男湯と女湯との間で「外で待ってる」「ハーイ」とかいうカップルのやりとりが何組もあり、森見登美彦氏流に言えば、『呪いの言葉をわめき散らし』たいような気分によくなったものです。その銭湯の近く、白川通今出川の交差点から銀閣寺へ通じる途中の疏水添いの小径は、4月の桜の花の散り際にはピンクの絨毯を敷いたような美しさで、私にも銭湯でのカップルのように、いつか春が来るのではという妄想を抱かせてくれました。十数年前、京都へ遊びに行った折、この小径を訪ねたのですが、実家への連絡によく使った公衆電話が、代替りはしているのでしょうが、その時も残っていたのには驚きました。
私が入学した昭和50年は、市電が走っていて、最寄の停留所から乗車する乗客のなかに、府立医大病院前で下車して医大へ向かう美人の学生さんがいました。通学時、見かけるのを楽しみにしていましたが、彼女の唯一の欠点は、腕を前後に大きく振って歩くことでした。市電が市バスに代ってからはあまり見かけなくなったのですが、美人ゆえ虫が寄りつかないよう防御していたのかもしれませんね。お医者さんか看護師さんを立派に勤めあげ、今は引退されているのでしょうか。
食事はというと、一年生の後期には3,4人の友人ができ、彼らと生協食堂を利用したり、昼食には御所近くの通称「小御所」こと青山という喫茶店でインベーダーゲームをしながら青山弁当を食べたりしました。この友人達がいなくて一人のときは、荒神口にあったジャズ喫茶しあんくれーるに入り浸っていたものでした。また、ジャズといえば、同志社大学の学園祭でソニー・ロリンズのコンサートを聞きにいった帰り、下宿に到着したときには門限を過ぎ、裏口の扉は閉ざされていました。10月とはいえ参道で一夜をやり過ごすわけにもいかず、木枠とトタン張りの扉に拳を血だらけにしながらも部屋へたどり着いたこともありました。
卒業から15年後、実家は震災で焼失、下宿探しに同行してくれた母も現在は認知症。今となっては、かけがえのない楽しい下宿生活を送らせてもらいました。
下宿から広小路校舎へ
昭和49年の入学式は、春闘のゼネストのため、延期して行なわれました。
市電は、東西の2路線だけ残っていました。
1回生の頃、山科から京阪京津線という、3両編成の電車で京阪三条まで向かいました。徒歩で鴨川沿いに歩いて、広小路まで通いました。北東には、比叡山がよく見えました。冬は、野鳥もいました。
2回生から、同志社の学生会館の近くの下宿から、同大・同女大を経て、御所を通って、大学まで行きました。
広小路校舎は、古くて狭いのに、法・文学部の学生も多く、毎朝、色々な団体がビラを配り、たまに立看も立っていました。周辺には、安い料金で食事を提供する中島がありました。また、「二十歳の原点」ででてきたシアンクレールという喫茶店も救済会館という新興宗教団体の建物もありました。現在府立医大の駐車場になっているようですが、一度医大病院で、病気を診てもらったら、インターンの学生がいっぱい来て、面食らいました。
クラブは2回生からESSに入り、昼の活動はこちらで行ないました。夕方の活動は広小路から衣笠まで5円でいけるスクールバスに乗って行きました。乗れない時は59番の市バスで出かけました。衣笠は、広小路より広く、新しいキャンパスでした。食堂・図書館も新しくきれいでした。
普段のスクールライフは、最初朝からラーメンを食べていましたが、気持ち悪くなり、学校で朝・昼・夕食を食べることが多くなりました。下宿は立命は私一人で、同志社・京大の学生がいました。トイレは共用で、フロは銭湯へ行きました。時々、同志社の相撲部の学生がいて、体が大きくてびっくりしました。
昭和49~53年は、オイルショックでの狂乱物価の時期もあり他大学のヘルメットの学生もいたましたが、まあ楽しい4年間でした。
新設された衣笠寮での生活
終戦から間もない昭和23年4月、私は立命館専門学校に入学しました。最初は三重県の自宅から汽車通学をしていました。しかし、当時はよく停電して、停電になると市電も止まってしまい、授業に遅れるんです。こんな事がしばしばあったので、父親の知人の紹介で、金閣寺の近くで下宿する事に決まりました。そこで2年半お世話になりましたが、ある時学校の事務所で衣笠寮開設の話を聞き、入寮希望者名簿に登録をしました。昭和25年11月上旬に入寮者が決定し、11月中旬に寮生第一号となりました。同20日には全員入寮したと記憶します。
私は集団生活は初めてです。自炊の経験もありません。しかも私を含め3名が最上級生です。寮と言っても民間のアパートを購入した中古物件で、炊事場もトイレも1カ所で共同使用です。「何かルールが必要だ」と思いました。舎監の畠山直隆先生(故人)は既に家族で衣笠寮にお住まいでしたので、ご相談申し上げ、2階の大広間で寮生大会を開いて、最低限の規約を作ったように記憶します。
当時理工系の学科が衣笠キャンパスにあった関係で、衣笠寮寮生の大多数は理工系の学生でした。そして皆よく勉強し優秀でした。東は北海道・西は愛媛県山口県出身者という広範囲な集団でした。私は日本育英会の奨学生だった関係で、希望者に育英資金を借りる手続きの方法を教えました。奨学生になった寮生から「あれ本当に助かります。有難うございました。」とお礼を言われた事を思い出します。私は貧乏で走り回っていましたが、寮を拠点にして、御室や嵐山へ桜見物に。また等持院の石庭、妙心寺の境内で静かに瞑想し、文化的教養を養っている寮生もいました。
寮生活で忘れられない事にエキストラ出演があります。衣笠寮は太秦に近いからか、まとまった人数が得やすいからか、太秦の撮影所からエキストラとしてのアルバイト求人がよく舞い込みました。私も何回か行きましたが、美しい女優と出会えたり、自分のちょんまげ姿がまんざらでもないと感じたりで、みんなよく行ってたみたいです。
寮から徒歩10分ばかりで校門です。校門には専門学校と大学学部の名前を書いた棒杭がありました。今思えば懐かしい限りです。
私が現在あるのは、衣笠寮で多くの学友と切磋琢磨し、「我以外すべて師」と教えられたお陰です。衣笠寮に対しただただ感謝あるのみです。
片道約1時間余りの路面電車
昭和32年、法学部を卒業しました。学び舎は広小路学舎でした。過ぎてしまえば早いものですね。現在85歳です。
下宿は西院から西方向の梅津でした。今は存続してませんが下宿先は上野大橋北詰の橋平旅館の2階建ての空き家の別館でした。立命、京大、同志社、その他の大学の男子学生達が下宿していました。各自、コンロでの炭炊き自炊でした。上野大橋下近辺の河川敷で釣りをしたり、フキなど、野草を摘んで下宿生と鍋料理で供食会もよくしました。
通学路は路面電車の梅津線で西院で乗り換えての路面電車でした。当時の梅津線沿いは殆どが田園地帯でしたが懐かしいのは当時の日新電機、京都外大、四条中学が現存している事です。路面電車から眺める木造瓦屋根の民家の並びには何かやわらぎを感じての毎日楽しい
通学路でした。路面電車沿いの御所の長い緑の植物の風景にも爽やかな安らぎを頂きました。
路面電車の中では懸命に本を読んで勉強をしました。その過程で(憲法第三十一条:何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。)の(法律の定める手続によらなければ)のおおざっぱさに興味が湧き研究を始め論文を書きました。将来は国際化社会になるとの信念で英語で書きました。立命館法学 学生論集 第4号に掲載されました。梅津からの通学に路面電車があったからこそ片道約1時間余り路面電車の中で勉強に励むことが出来たので論文が書けたのです。
2019年、校友会100周年との由ですが、昭和30年11月11日、私、大学創立55周年記念学園祭の英語弁論大会で第一位の賞を末川博先生より頂きました。これも下宿地の梅津よりの路面電車の中での勉強が出来たからです。その論文が2015年(平成27年)、東京の文芸社より発行されました。自作のホームページでは、憲法日本語版、英語版を全文紹介しています。