2019年 立命館大学校友会は設立100周年を迎えます。

Alumni

ブルックリン

家族とは一生会えないかもしれない。1950年代、アイルランドの田舎町から夢を抱いて、ニューヨークへと向かう客船にひとり乗り込む。うら若き娘エイリシュ。もちろん生まれた町から出たことがない。初めての船旅、戸惑う主人公。船酔いのため吐きそうになりながらも勇気を胸に新天地へ。やっと思いでニューヨークの港に着く。そして入国管理局の窓口でキッパリとしたとした口調で「アメリカ合衆国へようこそ」と宣言され、審査済みのスタンプがドカッと押される。ひとりドアの前に立ち、おもむろに開けると外界の光が一斉に主人公を包む。
私は、このドアを開ける瞬間を見た時、いわゆる“ルビコン河を渡った”と思った。もう後には引き戻れない。人生における決定的な場面だ。この映画『ブルックリン』は、もっとも好きな映画のひとつである。
何故だろうか、おそらく郷愁(父母がいた家庭)と哀愁(ひたる思い出)が私の胸に響くせいだと思う。そして自分の人生と重なり合う部分があるからだろう。
1974年、和歌山県の片田舎から、立命館大で学ぶために京都に移り住んだ。もちろん人生初の体験(移住)である。誰ひとり知り合いのいない大学生活が始まり、不安と共に居場所が見つからない自分を発見する。しかし時と共に、徐々に友が現れ、生活にも慣れてくる。自分の居場所も見つかり、やがて下宿先に、大学に、京都に愛着が生まれる。下宿から大学へ自転車通学。北野天満宮の前を通り抜け、一路衣笠キャンパスへ、途中豪邸が甍を並べ京都らしい町並みが広がる。忘れられない大学生活。
映画では、二つの故郷(アイルランドの田舎町とブルックリン)と愛(結婚相手)で揺れ動く葛藤が、見ているものを主人公の内面へと見事に感情移入させる。自分ではどうしようもない運命に翻弄され、些細な出来事によって決定的な人生を選択せざるをえない現実。まるで「もののあはれ」である。
本居宣長が源氏物語に見出した「もののあはれ」。文芸評論家の小林秀雄によると「もの」とは「動かし難い“もの(事実)”」で、「あはれ」とは「感情の奥底から湧き出てくる嘆き」だという。人の力では、如何とも動かし難い現実に直面して、心の深奥から嘆きを発することだろう。そしてこの嘆きを織り成し、万葉の歌が生まれ出てくる。一方、『ブルックリン』もまた、厳然と心に宿る二つの故郷、家族との別離、二つの愛に引きずられる苦悩、四季が移り変わる映像、すべて「もののあはれ」だ。
エイリシュにとって故郷アイルランドの家族は動かし難いものである。そしてブルックリンでの出来事もまた、動かし難い現実である。その狭間で揺れ動きながら、運命という名の“偶然”で人生が決まってゆく。そしてこれが私自身の人生とも重なる。
年を重ね還暦を通り過ぎると、人生の峠を越えたせいなのか、自然とノスタルジーへと向かってしまう。

当時、龍安寺商店街近くの、風呂なし四畳半の木造モルタルアパートに住んでました。
礼金敷金なし、光熱水費、共益費コミで、12,000円でした。
洗濯機、便所、炊事場、ガスコンロ(ガスカセットは自分で持ち込み)は共同でした。
風呂は、龍安寺商店街の谷口湯に行ってました。
風呂帰りに、今はないと思いますが、ファミリアというコンビニで立ち読みしてました。
あと、龍安寺商店街には、美福食堂という学食より安い定食屋がありました。
安かったけど、ほんまに不味かったなー。
夏は、風呂代がもったいないので、衣笠キャンパスのトレセンのシャワー浴びてました。
あと、今は屋号が変わったけど、白梅町のパチンコ屋、衣笠会館で羽物でよう稼がせてもらったなー。
友達がカセット持って、下宿に遊びに来て、ビールとお菓子食べながらラジカセ聴いて、だべってたなぁ。
今から思うとお金はないけど、贅沢な時間を過ごしたなぁ。

誕生日Party♪

 私を含む前列3人の誕生日が偶然にも連続していたので、みんなでお祝いしてくれた時の写真です。(確か1回生の頃かな・・・) こんなに大勢でお祝いしてくれたことは、私にとって大学生活の大切な思い出です。 あれから25年近く経つけれど、みんな元気にしてるかな・・・。

ここは、西京極学生ハイツ

 昭和49年、当時としてはしゃれた名前の下宿先、鉄筋4階建て80人の学生が集う。
 駅から歩いて10分程度とはいえ周りにはまだ畑が点在するのどかな風景。ここからいくつもの出会いと出来事とが始まる。
 18歳の独り立ち、6畳程度の部屋には机と布団のみ、閑散とした部屋、テレビもなく唯一相手はラジオ、孤独の中で4年間の大学生活がスタートした。
 衣笠学舎までは自転車で1時間弱、朝早く学校へ行き朝食を食べ授業、昼食を取り授業、夕食を学食で食べて帰るいわゆる真面目な学生生活がしばらく続いた。
 下宿先は立命館・同志社など様々な大学の学生が烏合の衆、テレビのない私にとってロビーにある共同のテレビは少しずつ出会いの輪を広げていく。最初の出会いは鳥取県出身の立命館学生と山形の同志社学生、そして北海道・熊本の同志社先輩、愛知・佐賀の立命館先輩と出会いは広がっていった。2回生へと進むにつれて、山口・鹿児島・福井・三重からの同級生と出会い、そして今でも親交が続く友人となっていく。
 炊事場とトイレは共同、当然風呂はなく銭湯通い。電話も共同電話1台で、受電があると管理人のおばさんがブザーで呼び出してくれた。炊事場での自炊はガスのコインを買って節約しながら食事を作る。
 食事の思い出は多い、貧しいなかで常に飢えを感じていた。学食から自炊そして外食へと友人が増えるにつれ幅が広がる。下宿の近くの大衆食堂・駅のそば屋・深夜のラーメン屋台など想い出の場所が浮かんでくる。
 ある日、先輩が肉をご馳走してくれるという、肉はなんとホルモンのみ。初めて食べるホルモン、食べ切る硬さに驚きながらも空腹は十分に満たされた。鹿児島の下宿生と飲んだ初めての芋焼酎、すごく臭みが強く焼酎で飲める代物ではなかった。
 下宿先の近くでのアルバイト、夏の1ヶ月間京都西陣織の染付反物巻き、女子大でのパン販売、幼稚園児の家庭教師はお金を稼ぐとともに食事にありつけることが嬉しかった。
 様々な下宿生とお互いの部屋を行き来し、酒を酌み交わし郷土・勉強・バイト・将来の話などを語らい親交を深めていった。食事を分ち合い、悩みを相談し合い、共に歌い、流れていく時を楽しみ、時を築いていった。
 年次が進みにつれ、卒業して去る先輩を送り、新しく入る同窓・後輩を迎える。下宿にはコインで入れるシャワー室が設置され、銭湯代を節約できた。部屋には卒業する先輩が残していってくれたベニア板のベッド・冷蔵庫・ギター・レコードプレーヤーなどが増えていった。暑い夏を扇風機もなくうちわで過ごした。実家からの扇風機代が飲み代に消えたのが理由であるが。
 4年間の下宿生活は、人と人との交わり、生活していく強さやコツ、喜びや悲しみを十二分に教えてくれた。まさに青春そのものの下宿生活。今でもハイツの仲間は気心の知れた友である。
 ハイツは開発で取り壊され道路になっており当時を偲ぶ姿はないが、今でも心の中に鮮やかに残されている。

はじめての一人暮らし

 はじめての一人暮らしは、昭和50年3月から始まりました。
 たまたま我が家の親戚が京都にいたことで、心の片隅では少し安心していましたが、まずは宿探しで一苦労、早めに探さなければと思っていましたが、入学式ぎりぎりとなり、なんと学校から紹介された宿は、北区紫野にある間借りの3畳間、とりあえずは落ち着かないといけないと思いながら、親にも相談もできず、即決せざるを得ませんでした。今は3畳間なんて絶対にないと思いますが、布団を敷けば机やテーブルの置くスペースなんかまったくありません。ただ寝るだけです。自炊どころか食事する雰囲気ではありません。
 そんなみすぼらしく思える宿にも素晴らしい先輩(石川県七尾市出身)が二人いて、生活面、学校のことなどいろいろと教えていただきました。しばらくはここに落ち着いて夏休みにでもアパート探しすればとの助言もいただきました。先輩と三人で食事を作り一緒に先輩の部屋で食べたり、銭湯へ行ったりとすっかり仲良くしていただきました。
 そして、1回生の夏休み、アルバイトの合間を縫ってアパート探し、その結果、建売住宅(土地付き建売900万円)の新築物件(右京区太秦)、大家さんが息子さんのために購入されたとのことでしたが、すぐには使用しないのでしばらくの間、賃貸住宅として貸し出されたものを長崎の友人と二人で借りることに。今風に言えば、40年前のシェアハウスです。新築で快適、キッチンと風呂、トイレはもちろん共用ですが、今までの環境とは大きな違いでした。嵐電帷子ノ辻駅から3分の立地、加えて東映撮影所も近く、俳優さん、女優さんに会うことはごく普通。家の前は、高い囲いがしてありましたが、2階からは時代劇の池への飛び込みシーンの撮影場所が良く見えました。餃子の王将、パチンコ店、喫茶店など、思い出がたくさんあります。
 嵐電の帷子ノ辻から等持院までの通学、当時は定期を購入して途中駅に下車して史跡、名勝を訪ねることもしばしば。時には嵐山であったり北の白梅町であったりと。今になって思えばまち歩きを楽しむ日々を過ごしていたようです。
 そんな一人暮らしにようやく慣れたころ、親戚から栄養補給に来るようにと連絡をもらい、週末に出かけてはご馳走になっていました。
 学生時代を振り返ると、4回生になって就職(地方公務員)が決まり、実家へ戻ることとなりましたが、その時は、定年なんて想像もしていませんでしたが、気が付くと定年になっていた、という感じです。月日の経つのは本当に早いものだとつくづく実感しています。
 第二の人生、一日一日を大切に生きていきたいと思っています。
 私にとって忘れることのできない一人暮らし、学生生活でした。立命館大学、ありがとうございました。

京都、食と生活の切ない思い出

 今から、40年前の1977年の秋、高校2年生の時に修学旅行で訪れた京都を忘れ難く、1979年2月に立命館大学法学部を受験、不合格で失意のどん底にあったなかに、突然、追加合格の通知を受けました。急遽、3月26日頃、関東の埼玉の地から、母と共に下宿探しのために京都の町をいろいろタクシーで移動しました。当時、法学部のみは.広小路にあり、同志社大学エリアや京都大学エリアと重なる地域にあり、いろいろな下宿やユニークな先輩方の姿をみて、カルチャーショックを受けました。皆が既に条件の良い物件を確保した後の物件探しであったため、下宿探しには相当難儀しました。ようやく見つかった場所は上京区室町通寺之内付近で、地下鉄鞍馬口付近でした。物件は6畳一間、押入れ半間、洗面台、トイレは共同、風呂なしで家賃は1万5千円という物件でした。下宿探しの2日間、母と一晩旅館で過ごした夜はうれしいやら寂しいやら複雑な夜でした。4月4日には入学のために京都に転居。家具を組み立てるためのドライバーがなく、四条河原町の大丸まで行きドライバーを買ったことが思い出されます。一人で荷を解き、母が用意してくれた夕食を口にしたとたん、号泣してしまったことを今でも思い出します。下宿は土蔵を改造したもので、当然、エアコンはなく窓が小さく真夏は最悪、冬もこたつのみで過ごしました。また、窓を開けると、寺の墓地で毎日塔婆の音と線香の香り漂う日々でした。
 今まで食事はすべて母が用意してくれていたのが全部自己で対応しなければならなくなり、自己の生命維持?のために生協の定食には本当にお世話になりました。入学当時の朝定食が180円、カレーライスが150円程度でなかったのではないでしょうか。3食食べても千円以内であり、満足感も得られることから、食事をするために朝早くから大学に行き、夕食のために図書館にいる日々でした。また、長年、肥満というコンプレックスに悩まされていました。入学当初、86㎏近くあった体重もいつの間にか75㎏ぐらいになり、肥満というコンプレックスもおかげで解消されました。
 今出川河原町付近にあった中島食堂、ジャンボオムライスのあった喫茶店が懐かしいです。一番利用したのが下宿近くの烏丸寺之内付近にあったみやこ食堂で、チキンカツ定食420円、肉鍋定食400円ぐらいで何度食べたことか。また、烏丸鞍馬口付近には、ライスと焼きそばがセットになった焼きそば定食のある食堂があり、300円台でお腹が一杯となり幸せでした。今では、コンビニエンスストアやファーストフード店が至る所にありますが、とにかく食べることには苦労しました。既に父母は他界してしまいましたが、京都での生活を思い出すと、母との下宿探しした2日間のこと、一人暮らしを始めた日のこと、京都で下宿生活を経済的に支えてくれた父母のことを思い出し、改めて感謝する次第です。

↑