2019年 立命館大学校友会は設立100周年を迎えます。

Alumni

立命館大ワンダーフォーゲル会の創立とその後の歩み

大学入学式の日にたまたま出会った同じ高校の卒業生2人に声をかけ、数週間後の1956年4月27日、新入生3人で朝から校内にワンゲル会員募集の大きな模造紙を何枚か貼り出し、同じ文言のガリ版刷りのビラ4000枚を、3日間、校門前でバラ撒いた。そのビラに載せた文言が残っている。

「みなさん!この度一回生が数人集まって立命ワンダーフォーゲル会という新しいクラブを結成しました。ワンダーフォーゲルとは渡り鳥の意で、青年男女が簡素な支度で野山を渡り鳥の様に渡り歩き、健康と生命力にあふれた人生の一刻を満喫する世界的な運動です。私たちはこの素晴らしいクラブを立命にも作り、色々のプランを実行して、皆さんと共に、この大学生活をより楽しく送りたいと考えています。(後略)」

何故これほど詳しく記せるのかと言うと、後に発行された立命ワンダーフォーゲル会の機関誌「漂雲」創刊号と、OB会のホームページに創立事情が記録されているからだ。
さて、呼びかけに応じた学生は100名近くであった。先輩達もいた。早速次の日曜日には奥比叡、ポンポン山、奥伊吹等々に、そのうち他大学にも呼びかけ、夏に妙高高原、次の年には北海道まで出かけた。2年目には会員も200名ぐらいまで増えた。
組織としては常連と称する10人ばかりのメンバーが中核となり、存心館地下のうどん屋の隣に陣取って、毎日新たな情報交換と計画の立案、山野彷徨の話に明け暮れた。未知のトレイルを求めて、山岳部でもない、ハイキングでもない、自然と合一する新たなジャンルを開く思いであった。
創立期メンバーはワンゲル一色で青春を謳歌し卒業したが、その数年後の1962年、伝統を引き継いだ活気ある後輩たちが誰の援助を受けることなく自ら資金を集め、労力知力を結集して、雲取山の二の谷に立派な山小屋を完成させた。彼らなりにワンゲルを進化させ、新たな境地を開いたのだ。その小屋は後輩らの努力により長く維持管理され、正式にOB会が出来た2010年以降は小屋委員会に引き継がれ、毎年春秋にワークキャンプと称し30人近くが泊まり込みでメンテナンスを行っている。小屋本体は勿論、炊飯棟、本職OB宮司により遷座祭をすませた神社、テラス、トイレ、ドラム缶風呂、それに駐車場から30分の谷道までを整備し、お陰で二の谷全体が素晴らしい自然環境にある。清き水で飯を炊き、持ち寄った食料を加工し、一杯飲みながら一夜を明かす楽しさは、他に代え難い。それが何時でも可能なのだ。
OB会は数年おきに総会を開き、昨年は花背交流の森で現役を含め盛大な創立60周年大会を開催した。
10年ほど前、名簿を五十音順に並べ替えた。すると、同じ苗字、住所のカップルが13~14組いて驚いた。告白すれば、私の家内もワンゲル計画の参加者の一人。入学当初の思い付きが図らずも私だけでなく、同期生や大勢の後輩の人生を豊かにしたと思える、この上なく嬉しい出来事であった。

社会地理学は単に経済地理学の理論を勉強するにあらず。実際に地域に入って、その実態を調査し、様相を調査報告書にまとめるべし。このような考えに基づいて、年に1回地方都市に出かけて行っては集中的な地域調査を実施した。これは研究会を解散するまで続けられたはずである。1978年度は私たちの回が中心となって研究会を引っ張る番だった。地域調査のテーマを「単一産業に特化した地方都市の経済構造」と定め、調査地を兵庫県相生市とした。言わずもがなIHI(石川島播磨重工業)の本社がある地である。宿舎は『開運旅館』だった(写真)。縁起のいい名前の旅館でみんな一生懸命頑張った思い出がある。

年に一度の蓬莱セミナーハウス合宿

私の4年間の大学生活は、社会地理学研究会という今は亡きサークル活動とともにあった。そのサークルの重要なイベントがこれである。3月から続いていた新歓行事の締めくくりの大事なイベントとして、新しく入会した会員に、泊まり込みで、会の歴史や経済学基礎理論、年間の行事予定などをまとめて知ってもらう重要な会であった。また、夜はお酒を持ち込んで飲みながら、その他いろいろな経済地理学に関する話を先輩諸氏から聞いた思い出がある。
2日目の午後は、セミナーハウスのグラウンドでソフトボール大会をやって親睦を図った(写真)。このイベントの私の一番の思い出は、新入生の6月、前夜に飲んだサントリーホワイトがききすぎてダウンし、2日目のプログラムをパスしたことである。ゲロゲロしながら、みんなのソフトボールの「ワーワー」という歓声を空しく聞いていた自分を反省とともに思い出してしまった。

われら立命館パイレーツ!

大切な立命の仲間たちと白球を追いかけた、その一瞬を切り取った一枚。立命館大学衣笠キャンパス内の野球サークルでつくる通称Sリーグ。また、BKC含めた野球サークルが集まる大会、リッツカップ。そして関西の野球サークルが頂点を競うユニヴベースボールトーナメント。全員が色んな思いを抱き望んだ最後の大会で敗れた時の写真だが、晴れ晴れとした笑顔が印象的。社会という荒波に放たれ離れ離れとなってから早や10年。また立命の同志と白球を追いかけたい。

我が青春のメディックス

私が立命館大学混声合唱団メディックスに入団したのは、昭和48年5月15日土曜日の午後に地下食堂でのメディックス新入団員勧誘「こおらぱーてぃー」で、先輩女子の迫力ある勧誘に押し切られてのことであった。私は合唱経験が殆どなかったので経験者とのギゃップは非常に大きかったが、努力の甲斐あって2回生になった頃には何とか一人前になっていた。5月には新入生歓迎合宿、7月は関西
混声合唱団連盟定期演奏会、8月は夏季合宿、そして12月は1年間の活動の集大成である定期演奏会、2月には卒団生の追い出しコンパ、3月には春合宿と盛り沢山なスケジュールであった。夏季合宿を終えた後によく信州をクラブの仲間と旅行したが、なかでも上高地からの冠雪した槍ヶ岳の眺望が絶景であったことや、戸隠蕎麦の味が絶品であったこと等が懐かしく想いだされる。またメディックスでは何度も挫折しかけたが、4回生の定期演奏会に何とか参加して最後を締め括ることができた。また講義にはあまり出席しなかったが、広小路のボックスにはよく通ったものだ。合宿で寝食を共にした仲間達とは濃密な人間関係であり、お互いよく切磋琢磨した。今となっては本当に得難いまるで宝物のような「我が青春のメディックス」であった。
合唱団での経験はその後の銀行員人生に於いてスピーチとかカラオケの際に非常に役立った。また人事管理面に於いても、メディックスでの人的な交流体験が大いに役立ったと思う。そして学部や世代間を横断した卒団生との交流は、ここ最近に於いて衣笠学舎内の「カルム」と近くの「ムシ゛ーク」を貸切で20人程の少人数ながら「秋の会」を毎年9月下旬に開催している。卒団生の高齢化が進んで行くなか、これからは本当に1年1年を大事にしながら「一期一会」の精神でできるだけ参加し続けて、OBOGの皆様方と旧交を温めていきたいと思っている。

古美術研究会の思い出

私の手元に学生時代に読んだ1冊の単行本がある。書名『塔』、著者・梅原猛、昭和51年9月30日・集英社発行。私は同年12月25日発行の第五刷を購入し、翌年3月14日に読了と本の奧付頁に記している。この本との出合いも契機となって、昭和52年6月25日、立命館大学古美術研究会の主催による梅原猛講演会が、広小路学舎学園ホールにて開催された。講演者の梅原猛先生は、元立命館大学文学部教授であり、当時は京都市立芸術大学学長を務められていて、テレビやマスコミにも頻繁に出演されるなど、いってみれば超売れっ子の学者であった。演題は前年に刊行となっていた梅原先生の著書『塔』と同名であったが、講演の具体的な内容は、前述の著書を紐解きながら飛鳥・奈良時代における政治史と芸術史の交錯をさぐるというものであった。聴講者は立命館大学在学生のほか古美研OB、また他大学の古美術研究会の学生など約400名近くにも達し、予想を上回る盛況となった。この時の講演会の内容等を記録した手作りの冊子(立命館大学古美術研究会機関誌「白毫」第48号 梅原猛氏講演会記念号)も私の手元に残り、今から40年も前のことではあるが、当時のことが本当に懐かしく思い出されるのである。

ここで立命館大学古美術研究会について紹介してみたい。古美術研究会(通称 古美研)は昭和36年(1961年)、立命館大学文学部の学生の呼びかけにより、当時、文学部助教授であった梅原猛先生を顧問として結成される。前述の講演会はこの縁もあり、私が古美研会長であった昭和52年に実現したのである。創立当初の古美研については、「白毫」第51号(古美研OBと現役会員との合同発刊)にOBからの投稿も掲載されていて、当時をうかがい知ることができ興味深い。昭和40年頃には全学的なサークルとして認知され、会員数も100名前後であったという。私が古美研に入会したのは、大学に入学した昭和50年の4月であったが、4年間の学生時代を振り返ってみると、まさに学生生活=古美研三昧であったといっても過言ではない。京都・奈良などの歴史や古美術(とりわけ古仏)に憧れて立命館に入学した私にとって、古美研はまさに入るべくして入ったサークルであった。当時、古美研には4分科会(絵画・建築・彫刻・庭園)があり、私は4年間彫刻パートに所属。1年間の活動としては、週2回開催の分科会、各パート主催の見学会(年間約30回)、新歓コンパ・新歓合宿(5月)、薪能アルバイト(6月)、夏季合宿、未公開寺院パトロール(11月)、学園祭研究発表・打ち上げコンパ(11月)、四回生追い出しコンパ(12月・2月)、機関誌「白毫」発行(年3回)などがあって本当に盛りだくさん。

日本を代表するすばらしい文化財と出会うことができ、かつ個性豊かな多くの仲間たちと知り合えることができた古美研の4年間は、今もって私の大切な宝物となっている。

 

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