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清浄華院の裏門

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内山 一彦さん
1979年卒/文学部史学科
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2017.10.16
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清浄華院の裏門

 京都の市電は河原町今出川と府立医科大学病院・立命館大学前の間が一番よく揺れたように思う。腰を振り振り走る市電が通り過ぎるか過ぎないうちに、私はレールが敷かれた古びた石畳を横切り、河原町通りに面する清浄華院の小さな裏門を潜った。その路地の先は境内に入り込み、有心館のある寺町通りに抜ける近道になっていて、誰に教わったか、授業のたびによく通り抜けをしていた。昭和49年、1回生のころことだった。
 ある時、裏門を潜って境内の路地に入ると同時に、背後の河原町通りではまた路面電車が通り過ぎ、軋んで悲鳴を挙げるような音が聞こえた。そのとき、市電の中でふとこの門の中が気になって意識を向けた人がいた、というような妄想を描いたことがある。それはこの「通学路」を知る前、私は門の先に窄む路地の、お寺の中がどういう所なのか気になって覗いていたので、ほかにも興味を惹かれる人があってもいいと思ったからだ。自意識なのだろうか。
 京都では社寺の境内通り抜けは日常なのだろうが、気後れして立ち入れずにいた私には、「通学路」となった清浄華院の裏門の奥が一点の景色として心に残った。それは自分の中に京都の情趣が涌いて、お寺の非日常世界にこじんまりと縮こまって入り込んだというような、言い表わしにくい心象だった。
 路地の先はお寺の本堂に続き、通り抜ける時に身を屈めてその下を潜り抜ける、そういう気分の渡り廊下があった。潜り抜けるそのときこそ、心はこじんまりと縮こまる感覚で、小心な私にはその「関門」を通るのは若干気が引けた。見とがめられるかもしれない、しかし快感でもあった。京都の学生であったことの特権のようにも感じた。しかし、みんな自由に通り抜けていて、私だけ余計な神経を使ったが、清浄華院の関係者に出くわしたことはなかった。
 有心館での授業は第二外国語に選んだ中国語だった。講師は中国人の先生で、四声を練習して、私たち学生が抑揚をつけようとして努力すると突拍子もない声が教室に響いた。その単語や四声の発音は、今も講師の教え方や教室の空気とともに思い出に残っている。ときどき授業で覚えた中国語が無意識に出てきて、今も発音してしまう。自身が楽しい。
 喧噪の河原町とくらべ寺町は静かで、御所と梨ノ木神社の森を西にして、その対比から、河原町の溢れる陽光、寺町の落ち着いた静寂という観念を私は持っている。お寺という異なる世界を挟み、ふたつの違う感覚の通学路を行き来していたような気分が湧いてくる。
 京都の市電が全廃されたのは昭和53年、私が5回生のときだったと思う。翌年卒業したが、さらに同じゼミの仲間から数年遅れ、回り道をして就職した。
 もう一度清浄華院の裏門を入り、渡り廊下の下を潜り、寺町通りの有心館の授業に急いでみたい。

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