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下宿生活の大学時代

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作田 英行さん
1969年卒/法学部
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2017.9.20
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下宿生活の大学時代
                     
 私の最初の下宿先は下鴨中川原町であった。
 町家の2階建ての大学生相手の下宿屋で私を含め7名の下宿人である。当時は畳1畳千円で4畳の間取りであった。下宿生活は共同生活で外食・銭湯・洗濯等生活様式がガラリと一変した。
 私は法学部なので広小路学舎に通学した。行く道すがら先輩のKさんは岩波の六法全書は西の立命館の末川博で有斐閣の六法全書は東の東大の我妻栄の監修であると誇らしげに話をしてくれた。末川先生は1回生の「法学」の講義の時、70歳を古希というのは唐の詩人杜甫の「人生七十・古来希なり」に由来する。「もっと世の中がどう変わるかを見たい」と語った。そういう私は今年70歳(昭和44年法卒)になり、先生の味わい深い言葉をかみしめている。「法の理念は正義であり、法の目的は平和である」として「平和と民主主義」を学んだ。
 下宿からは市電で植物園前から河原町の府立医大前で下車した。毎朝90円の学食を食べた。クラブはESSに入り友人もでき下宿をお互い往来した。ESSでの信州での合宿では小泉八雲の「雪女」の英語での短編発表で暗記に努め部員の前で発表した思い出がある。又私は広島大学から立命館の産業社会学部の教授で赴任されてきた社会学者の中野清一教授のお宅に宇治によく出かけた。中野先生は私の父(五族協和の建国大学一期生)の満州建国大学時代の先生であり、親子二代のご縁と奥様共々語り、「作田君!明日の講義はあるの...?そうであったら下宿暮しだし泊まっていったら」と云われ何度か泊めて頂き朝食に初めてのオ-トミ-ルをご馳走になり今でもその味が忘れられない。
 京都の夏は暑いし冬は寒い。冬は鴨川からの風は冷たい。1回生の1月のテスト時は漏電するからと炬燵が使用できず腰に毛布を巻き足温器で暖をとり単位を取るべき勉強した。
 2回生から新京極の六角通り堺町の町家の炬燵の使える下宿に移った。2階の4畳の部屋でいつも格子戸のひもを引っ張り鰻の寝床に入った。大家の一人暮らしのおばさんは匂い袋を縫って晩遅くまで仕事をしており、私は学生の身でおばさんより早く寝てはまずいと思い実行した。毎朝、テレビの朝ドラの「おはなはん」のメロデ-が快く流れ聞こえた。夏は祇園祭りの宵山のコンチキチン,コンチキチンの鐘の音が祭りの気分をさらに掻き立てた。4回生の時、研心館から講義を受け外に出てきた時、研心館前に立っていたわだつみの像がロープで引き倒されて無残にも破壊されていた。平和のシンボルとして戦没学生祈念像として建立されたものを想うと心が痛み全共闘に対し怒りを感じた。ノンポリの私は学園を守ろうと存心館前で有志と両腕を組み防戦した。放水で水をかけられたが必死で帰れコ-ルを何度も大声で呼びかけた。
 下宿に帰り、水をかけられた衣類を洗いながら全共闘運動は間違っていると心で叫んだ。
 私の昭和44年の大学時の卒業式は無く卒業証書は法学部事務室で頂いた。

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