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二軒長屋の先生

name
松橋 芳喜さん
1960年卒/理工学部
post
2017.7.31
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二軒長屋の先生

 私は昭和9年(1934年)サハリン、当時は樺太の国境の町敷香生まれで、敗戦の昭和20年国民学校5年生の夏、ソ連軍の占領前に引揚げることができました。最初は父方の伯父を頼って北海道日高の静内に仮住まいでしたが、父がいつ戻れるか不明なので、母の実家のある秋田の小さな町の移りました。暮れに父が樺太からの脱出ができ、6年生の秋に再び北海道の静内で家族揃っての生活が始まりました。新制中学を経て、札幌工業(定時制)を出て1年後に立命館理工学部入学ですので同級生より年寄ですので仲間内で兄貴と呼ばれていました。
 
 友人からの紹介で下宿をお願いに一乗寺の家を訪れたのですが、すぐには承諾されず、一週間ほど経てからお許しとのことで、挨拶に行きましたが、小柄のおばさんが開口一番「まっはしはん、内の社中はんにおいたしたら、あきまへんようー」と言われたのです。この京ことばを理解できなかったようでした。
 茶の湯『南坊流』華道『遠州流』を教えていて皆が先生と呼んでいました。出戻りの娘さんとの二人暮らしでしたので男手が必要だったようですが、金光教の信者でもあり何事もお伺いを経てから決めていて、私の下宿もこのお伺いにかなったからです。家は住宅街に多くあった平屋の二軒長屋でした。さて内の社中さんですが、小学生から婦人会のおばさん達で先生も多忙でした。年頃の娘さんは仕事を終え夕食後の稽古ですので、帰りが深夜になります。そこで私が彼女等を家まで送るのです。部屋代は1300円光熱費込みで春・夏休みで帰省の折は1000円でした。部屋は下宿の先輩(同志社・文学部)が自分用に増築させた変則な四畳に半間の押入れ付でした。この家には昭和35年3月まで下宿しましたが部屋代は最後まで同じでした。内の社中はんに、おいたしませんようーを痩せがまんで守りましたので。
 下宿に別れる日、先生が扇子を展げその上に餞別を載せて差し出されました。嗚呼これぞ京都かと感動しました。
 
 その後も先生との縁は切れず、お茶の社中の婦人会のおばさんの娘と結婚しましたが、婚礼には先生と娘さんにもおいでいただきました。私は三重県庁の土木技師を定年まで勤めましたが、これも縁は異なもの、下宿の先輩がなんと伊勢古市の江戸時代から続く老舗旅館「麻吉」のご主人とは。京都の先生が伊勢においでの折は私も呼んでいただき「麻吉」で旧交を温めたことも懐かしい思い出です。

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